丸子地区の養蚕業
製糸業発展の基盤
三世紀に百済(くだら)よりもたらされた養蚕及び絹織物の技術は、その後、信濃国へも伝えられ、平安時代には、糸・絹の納入国として「延喜式(えんぎしき)」に記載されるまでになります。けれども、質実剛健(しつじつこうけん)を重んじる武士の世になると衰退していきます。
しかし、江戸中期になると、あいついでなされた輸入制限により、安土(あづち)・桃山(ももやま)時代以降続いた生糸の輸入がとだえ、また元禄(げんろく)文化の影響もあり、生糸の需要が増加しました。
米を経済の基盤としていた江戸幕府は、本田(ほんでん)、本畑(ほんばた)への桑の植付けを禁止していましたが、信濃国では、田畑として利用できない河原の荒地(あれち)や、山腹の傾斜地を多くもっていたので、禁止令に違反することなく桑園を設けることができました。このため信濃国では、再び蚕糸(さんし)業が大発達することとなります。
安政(あんせい)6年(1859)の横浜港開港以後は、ヨーロッパの主要蚕糸国であった、フランス・イタリアの養蚕が、微粒子(びりゅうし)病の蔓延(まんえん)により壊滅(かいめつ)したこともあって蚕種や生糸の輸出が急増し、ますます桑園の開発が進みました。また、田畑への栽植禁止令(さいしょくきんしれい)の緩和や養蚕の収益の良さもてつだって、平坦部が一面桑で覆(おお)われました。
ことに上田・小県地方は、明暦(めいれき)元年(1655)ごろ、丸子町の依田川沿岸数10haが開墾(かいこん)され桑の植付けが行われたのを最初に、信濃国で最も早く蚕糸業が発達しました。上田には、生糸を扱う豪商(ごうしょう)もあらわれま'した。そして明治初期には、この地方の生糸生産高は長野県全体の約半分を占めるなど、生糸の一大産地となります。また、それにともない蚕種(さんしゅ)業も発達し、天保年間(1830~1843)には、本場奥州(おうしゅう)をしのぐほどになりました。
江戸時代までの生糸は、農家の副業として行われ、一軒の農家で桑の栽培から蚕の飼育・糸とりまでのすべてをしていました。しかし、生糸の需要が増えてきたので、丸子にも家内工業的な製糸工場を営むものがあらわれてきます。明治初期、長瀬(ながせ)村につくられた「座繰(ざぐり)」による工場は、こうした例の1つです。
しかし、このことが明治政府のすすめで西欧から導入された「洋式器械製糸」がスムーズにこの地方にはいらない原因ともなりました。
- 養蚕の守り神
- 養蚕の図
- 座繰り木(右手回し)
右手で歯車を回し、左手で糸を挽いた - 座繰り木(左手回し)
右手回しよりも進化したもので、右手で添緒など重要な作業ができるようになった。 - 揚げ返器(初期)