丸子地区の養蚕業
製糸業の衰退と現在の丸子町
昭和4年(1929)、ニューヨーク株式市場の大暴落(ぼうらく)をきっかけとして始まった世界恐慌(きょうこう)は、アメリカの絹需要を急激に減退させ、全面的にアメリカ市場に依存していた日本の製糸業に大打撃を与えました。加えて、人絹の急速な進出や、中国産生糸・高価な欧州産生糸の価格低落による日本産生糸の市場占有率の減少なども、いっそう打撃(だげき)に拍車をかけました。
このため、製糸家がつくる蚕糸業同業組合中央会を中心に、全国的規模で生糸の共同保管や操業(そうぎょう)短縮を実施しました。さらに政府も資金援助や滞貨生糸の買い上げなどの援助を実施しました。しかし、製糸業の不況は長く続き、この間、中小はもちろん大企業の倒産も相次ぎました。そして次第に国家の統制が強まってきました。
丸子町の製糸業は、当初からアメリカ向けの生産にあたっていたので、その打撃は深刻で、工場の倒産・賃金の不払いなどが続出しました。また、普通の畑を桑畑にして養蚕経営をする農家も多く、地域全体が製糸に密接に関係していたため、その影響はたいへん大きく、社会不安をひきおこしました。
こうした中で、国家主導の合理化、再編成が進み、工場数・釜数とも減りますが、太平洋戦争が始まると、製糸業は戦時体制に不要不急のものとされ、工場は次々と軍需(ぐんじゅ)工場に転用されました。ここに生糸の町といわれた丸子の製糸工場は、ほとんど姿を消してしまいました。
終戦後、日本経済はめざましい復興をとげました。岡谷をはじめとする県内の製糸業地帯では、疎開していたかつての軍需(ぐんじゅ)産業がもととなり、光学・通信・機械工業を中心とする新しい工業地帯に変わりました。しかし、丸子では、絹糸紡績(けんしぼうせき)を除いては、かつての製糸工場は全く利用されず、新たな工場が入ってきて軽工業の町へと変わっていきました。