「依田社」日本最古のPRフィルム

見つかった現存最古のPR用フィルム

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長野県小県(ちいさがた)郡丸子町、幅ニキロ、長さ五キロの狭く長い平地、山に囲まれた所というよりも、すぐ近くの山の向こうに山があり、またその向こうに山があると表現したほうがぴったりだ。この丸子町は今、朝鮮人参の全国一の集積産地として有名だが、明治の終わりから昭和の初めまでは製糸の町として、日本国内はもとより、アメリカにまでその名を知られていた。

丸子町の製糸会社・依田社は、全盛期だった大正時代にアメリカから技師を招いて会社の宣伝用フィルムを作っている。「依田社の記録」は、現存する最も古いPR用フィルムと思われる。

大正時代、こういうものを作った依田社とは、明治二二年(1889)にいくつかの小さい製糸工場がひとつにまとまってできた会社だ。当時、製糸は生死ともいわれるほど糸の価格変動が激しく、工場の経営も不安定だった。そこで、依田社が設立され、再繰所、検査、荷造り、出荷、販売などが共同に行われることとなり、各工場は安定した。結果、うまくいったことにより町全体にも大きな発展がもたらされたのだ。複数の工場をひとつの会社として組織する方法は、やはり絹業の町として知られた岡谷を手本にしたのだが、現在のフランチャイズ方式のはしりのようなものだろう。

丸子町の糸に人気があったのは、依田社の組織力もさることながら、きわめて品質が良かったからである。100%アメリカへの輸出用に作られ、町が貿易でうるおったのは経済的な面だけではなかった。製糸を積み出す港の横浜を通じて今度はアメリカからの文化が直輸入され、信州の山間にあったにもかかわらず、当時はハイカラな町だった。大正一二年(一九二三)米国絹業協会会長ゴールドスミス氏らが訪れたように、アメリカ人は頻繁に丸子へ来ていた。依田社はそのためにアメリカ人用の迎賓館「依水館」を造っている。

丸子町の製糸全盛期は、明治四〇年(1907)から昭和三年(1928)頃までで、依田社も昭和二年の大不況、続く昭和五年アメリカの大恐慌のあおりを受け、大正一一年(1922)には九〇〇〇人いた女子工員も、昭和七年(1932)四〇〇〇人にまで減っている。三六あった工場もだんだんとなくなり、昭和二〇年(1945)最後の工場が閉鎖し、かつては専属病院から模範工女養成所など付属施設を持ち、信濃ガス会社、信濃電灯会社、丸子軽便鉄道などの都市開発事業にも力を貸すほどだった依田社の、五六年の歴史が終わった。

PR用映画は依田社の景気がいい時期に、金に糸目をつけずに作ったのであろう。アメリカ向けと女子工員教育・娯楽用の二本に分かれている。

アメリカ用は英語版で「生糸が出荷されるまで」を撮影している。丸子町の遠景-繭の取引-女子工員-繰糸-検査-かせ作り-束作り、そして五種類のトレードマークであるラベルが写しだされる。これはゴルフ、テニスなどモダンな図柄で、外国受けを十分に意識してのことだ。次にフィルムは、俵の計量-俵の袋詰め-俵作り-運送ときて、ここで丸子町から横浜の小野商店へと場面が変わる。荷下ろし-荷車-横浜港からの船積みで終了。

フィルムを見ると、当時の運搬作業員は軽々と生糸の俵を何度も運んでいるが、その重さは1俵約60キロもある。また、本来なら横浜を出航の時に厳重な生糸検査のシーンが入るはずなのだが、これがない。依田社は自社検査だけで直接商社へ卸すことができたからだ。それだけ、信用が高かったということで、その分値段も高かったという。

もう一本は女子工員を集めるために見せたと思われる会社のデモンストレーション用フィルムだ。楽しい運動会がメイン。町の遠景から始まり、電車-橋-消防といった、依田社の町への貢献度を見せてから、運動会へと場面が変わる。競技は依田社を構成している各工場ごとに競っている。徒競走-授賞式-カン転がし-女子工員のダンス-仮装行列、最後に当時すでに丸子町にあったフォードの乗用車が写し出されて終わりとなる。西洋のダンスといい、フォードといい、いかにもアメリカ文化の香りを感じさせる。この運動会に次から次へと出てくるとても数え切れないほどたくさんの女子工員を見ていると、この時代に丸子町がいかに繁栄していたか一目瞭然だ。

当時女子工員は製糸労働者の九割を占め、一般には三月から一〇月までの出稼ぎだった。彼女たちのほとんどは近くの農家の娘で、明治の終わり頃から全盛期には人手不足のために娘たちの奪い合いが起こってくる。女子工員を集めるために高価なプレゼントをしたり、アメリカから直輸入したチャップリン映画を見せたりというサービスをやっている。

映像を見たことがない人がほとんどだった時代、動いている運動会のフィルム自体も楽しいものだったろうし、知っている人が写っていればなおさらのことである。乙女心が動いたならば、PR大成功といったところだ。

 これらのPR用フィルム、内容はもちろんだが、その撮影技術の高さにも驚かされる。ストップモーション、オーバーラップ、クローズアップ、フルショットなど駆使し被写体をいろいろなアングルから撮っているのだ。一八から二四コマで撮影されていた時代、現代とあまりかわらないアクションでコマが安定している。わざわざアメリカから招いた撮影技師のテクニックが優れていたのであろうが、これらのフィルムは広告宣伝資料としても、映像的価値としても貴重なものだ。

しかし、このフィルムもあわや失われかけていたのだ。昭和五九年(1984)、現在所蔵している丸子町郷土博物館に、ある旧家から三五ミリのセルロイド製フィルムが届けられた。ほとんどが赤味をおび少しの摩擦で発火する寸前だった。これらのフィルムは昭和四〇年頃まで丸子町のあちこちの家にころがっていたらしい。セルロイドが古くなり化学変化を起こし危険物になっているとも知らず、子供たちの遊び道具だったそうだ。フィルムの存在は町の誰もが知っていたのだが、館に持ち込まれた映像を竹内一徳学芸員が調査するまで、その価値にだれも気がつかなかった。そのうちの一〇分の一は使用にたえられないもの。危険なので焼却処理したのだが、その炎が一〇メートル以上も燃え上がり何か異様な感じだったという。

「依田社の記録」は国立歴史民俗博物館の手によりセルロイドからビデオ・テープへと転換され、国の資料として歴民博でも所蔵している。

電通広告資料収集事務局・学芸員 中田節子著
「広告の中のニッポン」(ダイヤモンド社)より転載

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35ミリフィルム提供: 小林 朗様(旧丸子町上丸子)
協力: IPAマルチメディア研究センター