丸子地区の養蚕業

全盛期の製糸業

20世紀にはいり世界一の絹織物産地となったアメリカの絹工業は、機械的生産方法を全面的に導入して、大量生産へと進みました。そのため、フランス・イタリアのように優良な細糸でなく、低コストで均一の太糸を大量に必要としました。この条件にあった日本の器械製糸の糸は、明治40年ごろから輸出が急増します。そして、アメリカの絹工業の高度化にともなって、生産のほとんどを輸出でしめる日本の製糸業にも、質的向上、機械化が求められるようになりました。

このことは、良い繭を得るための養蚕農家・養蚕組合との特約取引や、繰糸・再繰法の改良、検査の充実などを積極的に進める結果となりました。また、資本主義の発達にともなって、女子工員の賃金も上昇したため、製糸家はより積極的に機械化を進めなければならなくなりました。しかし、丸子が共同結社のお手本とした岡谷では、早くから結社は解消されていて、片倉組や山十組などの大製糸家が輩出していました。そこで資本の少ない丸子の製糸家は、共同結社「依田社」・「旭社」を中心に近代化を進めました。

ことに「依田社」は、下村急逝(きゅうせい)後、二代目社長となった工藤善助により、大正3年、産業組合法に基づく「有限責任販売組合依田社」と組織を変更されてからは、一層の技術・検査の向上、機械化に力を注ぎました。この間、依田社式の繰糸鍋(そうしなべ)や機械類を開発したほか、アメリカへの生糸の輸出も積極的に進めました。こうして、丸子の製糸業は、全盛期を迎え製糸生産額は、明治末から昭和初期にかけ飛躍的に増加しました。

また、製糸業の隆盛にともない、人口が増え、町制が施行されたほか、文化・産業・経済の機関や施設が急速にととのえられ、丸子町は上田市とならぶこの地方の中心として栄えました。

  1. 丸子における製糸釜数及び生糸生産額累年比較 「依田社要覧」より作成
  2. 特許YD式煮繭機(A型)
  3. 特許YD式煮繭機(B型)
  4. 特許YD式浸透機
  5. 特許YD式生皮苧整理機
    YD式各種機械は、依田社技師佐藤金六によって発明された。