丸子地区の養蚕業

製糸業と丸子町の文化

製糸業の発達により、製糸家のみならず地域全体がうるおうこととなりました。街は活気に満ち、生糸の取引を通じ交流のあった横浜やアメリカの文化が直接もたらされました。

製糸家の援助により、明治44年中央から知名の士を招き講演会を催し、一般に公開聴講させるという、現在の信州夏期大学と同様な「依田窪教育会」が発足したのを始め、45年には組合立の「丸子農商学校」(現・県立丸子実業高等学校)が開校、製糸業が全盛を迎える大正時代にはいると、2年に丸子小学校(現・丸子中央小学校)へ、この地方で最も早く、現博物館の前身ともいえる「丸子陳列館」が開館、6年には「丸子劇場」が開場、11年には現図書館の前身ともいうべき「丸子図書館」が丸子小学校内に設置されたほか、地元新聞(丸子タイムス)の創刊がされるなど、製糸業の発達と歩調をあわせ文化施設の設置、文化事業の開始があいつぎ、住民の文化に対する開心も深まりました。

そして、この風潮のなかで、豊富な資金を使い、九谷を始めとする焼物や、南画・水墨画を中心とした絵画など、当時一流とされた美術品の収集をするものもあらわれたほか、これらの援助を受け、地域にも文化・芸術活動で活躍するものがあらわれます。

俳諧では、東京・芭蕉庵の伊藤松宇(上丸子)が、東京を中心に活躍しました。日本画では、信州の代表的南画家・児玉果亭(こだまかてい)の弟子の笹沢礫亭(ささざわれきてい)(塩川)、土屋泉石(つちやせんせき)(上丸子)などが活躍しました。ことに泉石は、ハワイ滞在中に得た知識をもとにして、伝統の南画に水彩画の風昧を加えた独特の画風を完成させたほか、「世界相手の商工業は イト キイト サノサ……」で始まる丸子小唄の作詞・作曲をするなど、丸子を代表する文化人として活躍をしました。

  1. 丸子陳列館
  2. 収集された美術品の例
    渡辺華山筆
    「花鳥図」紙本着色 70×54cm
  3. 土屋泉石作品
    「花鳥図」紙本着色 100×43cm
  4. 収集品目録
    池上秀畝・児玉果亭・中村不折等の軸、金・銀屏風などが列記されている。