安房守昌幸父子高野山蟄居の事

写本リーダー

現代語

安房守昌幸父子高野山蟄居の事

 そうこうしているうちに上方の諸将はことごとく敗北してしまったので、安房守昌幸・左衛門佐信繁父子は上田の城にあって防戦の用意をし、討ち死にの時を待っていたところ、嫡子伊豆守信之が身体を (なげう)って父昌幸の助命の儀を家康公へ訴えたので家康公もその忠孝をお感じになられた。そして、特別に「安房守と左衛門佐の一命を助け、両人ともに紀州(紀伊)高野山へ遣わし蟄居(ちっきょ)させよ」と命じられたので、信之は有難くこの旨をお請けし、直ちに両人を紀州へ送った。また、上田城は破却されたが、昌幸の領地上田と沼田の地を合わせ九万石は信之に賜わった。一方、昌幸父子は紀州高野のふもと九度山という所に蟄居していたが、昌幸は 慶長十八年(一六一三)六月四日に七十歳で病死し、左衛門佐は慶長二十年(一六一五)五月七日に四十九歳で摂州(摂津)大坂城で戦死した。

○ある記によると、関ヶ原の合戦に坂西(大坂)方が敗北し、石田以下は生け捕られたり討ち死にしたりしたと聞こえてきた。そこで、石田三成に与力した諸国の大小名らは、敵が攻め寄せてもこないのに落ちて行ったり降参したりした。その中に信州小県郡上田の城主真田安房守昌幸父子は石田の敗北を聞いても気を屈しないで、兵糧・玉矢等を取り入れてなお堅固に籠城していた。このことを聞いて、諸将は押し寄せて攻め破り (家康公の)御感に預かろうと討手を強く望んだ。家康公は「真田は武勇の者であるという。その上、(ふる)き家であるので攻め殺すことは不便(ふびん)である。殊に嫡子伊豆守は予に忠を尽くして少しも不義(義に背くこと)がない。なんとかして扱い(仲裁)を入れて、真田父子を降伏させよ」と仰せられた。そのため、他家から討手を望むことはかなわなくなった。伊豆守信之は家康公の仰せを受け信州へ下り、父安房守に対面し家康公の仰せを語って様々に意見した。けれども昌幸は少しも承知せずに「なんじは数年家康公に従い、その上に縁者の好みもあるので格別懇意と聞く。なれば父のために一命を捨てて、家康公を刺し殺せ」と言った。信之は「年来家康公の厚恩に預かり、父の仰せではあっても(家康公に)害心を起こさねばならない(いわ)れはない。この上関東へ敵対されるならば、父ではあっても主君の敵である。ただ今雌雄を決するのは容易ではあるが、お使いに来てその子細も申し上げずに勝手に討ち果たすのは主君への不忠である。改めて勝負をつかまつりましょう。支度をしてお待ち下さい」と座を立って帰ったので、昌幸は「もっともなり」とうなずいて「我が子ではあるが、敵なれば安穏に帰してはならない」と言って、足軽の兵に後を追わせた。信之は馳せ帰り、右の次第をありのままに申し上げた。家康公は父子の武勇・忠節をいよいよ感じられ「この上は、なんじ馳せ向かって父と弟が首を(は)ねて参れ。そうしたならば信州一円、百万石を与えよう」と仰せられた。伊豆守は「承知つかまつりました」と申し上げ、御前を立って宿所へ帰って出陣の用意をし、家康公の御前を用ありげに立ち回った。家康公は「何か理由があって来たのか。出陣を延べ引かせるためか」と尋ねられた。伊豆守はかしこまって「このたび父の討手を仰せ付けられたことは、身に余り有難く存じ奉ります。しかしながら家臣の安堵のために、どうか恩賞のご朱印を頂戴して出陣つかまつりたい」と申し上げた。家康公はこれを聞かれ、しばらく思案されていたが「誠に安堵のためならば」と仰せられて、直ちにご朱印を下された。伊豆守は謹んで頂戴し、宿所へ立ち帰り出陣の用意をして、また御前へ出、「お願い申し上げたいことがあってまかり出ました」と伝えた。家康公が「手勢が不足し、加勢を願いに来たのか」と尋ねられると、伊豆守は「このたび安房守が御敵つかまつるについて諸将討手を望むところに、お情けをもってそれがしに討手を仰せ付けになられたことは、生涯の面目であり有難き幸せに存じます。それについて、このたび父の命をお助け下されるならば、この上のご厚恩となるでありましょう。そうしていただけるならば、先に拝領つかまつりました信州一円を下さるというご朱印をお返しつかまつります」と涙を流して申し上げた。家康公はすこぶる機嫌を損じられて、とかくの仰せもなく奥へ入られてしまった。しばらくして、また伊豆守を御前へ召されて「なんじが父安房守は度々我に敵対し、その上このたびも石田に味方した。謀叛(むほん)人の張本のうち一人二人は必ず死刑に処さなければならぬものである。けれどもなんじは我に仕えて忠節を励み、少しの私心もない。その忠信を感じ思うところなので、ただ今父安房守と弟左衛門佐の一命をなんじに与える。早速高野山へ遣わせ」と仰せられた。伊豆守は大いに喜び「有難き」旨をお礼申し上げ、直ちに信州へ赴いて家康公の仰せを細々(こまごま)と伝えたので、安房守と左衛門佐は上田城を出て、近臣少々を召し連れて高野へ赴き、九度山という所に蟄居した。安房守昌幸は 慶長十八年(一六一三)に高野において病死し、左衛門佐は慶長十九年(一六一四)に秀頼卿謀叛の時に大坂の城へ立て籠り、武勇を天下に輝やかし慶長二十年(一六一五)五月七日に討ち死にした。また、上田城は伊豆守に賜わったと云々。
このこと(ここに書いたこと)は「安房守昌幸伝記」と「伊豆守信之伝記」と見合わせたならば、ことが正しくなるであろう。今参考のためにある記のすべてを挙げておく。

 

原文

安房守昌幸父子高野山蟄居之事

去ル程ニ上方ノ諸將悉ク敗北セシカ共安房守昌幸・左衛門佐信繁父子ハ上田ノ城ニ在テ防戰ノ用意ヲナシ討死ヲ相待レシ處ニ、嫡子伊豆守信之身体ヲ抛テ父昌幸ノ一命ノ儀ヲ家康公ヘ御訴詔有ケレハ、家康公ニモ其ノ忠孝ヲ御感有、別儀ヲ以安房守・左衛門佐ノ一命ヲ御助有テ、兩人共ニ紀州高野山ヘ遣シ置ヘキノ旨ヲ命セラレケレハ信之有難キ旨ヲ御請有、即兩人ヲ紀州ヘ送ラレケル、又上田ノ城ヲハ破却有、昌幸ノ領地上田ト上州沼田ノ地惣シテ九万石ヲ信之ヘソ賜リケル、偖昌幸父子ハ紀州高野ノ麓久土山ト云處ニ蟄居有ケルニ、昌幸ハ慶長十八年丑六月四日ニ七十歳ニシテ久土山ニ於テ病死有、左衛門佐ニハ慶長廿年乙卯ノ五月七日ニ四十九歳ニシテ摂州大坂ノ城ニテ戰死有ケル也

或記云、關ヶ原ノ合戰ニ坂西方敗北シテ石田以下或ハ生捕レ或ハ討死シタリト聞ヘケレハ、石田三成ニ與力セシ諸國ノ大小名等敵ノ寄サルニ落行、或ハ降参シ尻舞スル、其中ニ信州小縣郡上田城主眞田安房守昌幸父子ハ石田カ敗北ヲ聞テモ氣ヲ屈セス、結句兵粮・玉矢等ヲ取入テ猶堅固ニ籠城セリ、此事ヲ聞テ諸將押寄テ攻破り御感ニ預ラン迚討手ヲ願望ム、家康公宣フ様ハ眞田ハ武勇ノ者卜云、其上舊キ家ナレハ責殺サン事ハ不便也、殊ニ嫡子伊豆守ハ予ニ忠ヲ盡シテ毛頭不儀ナシ、何卒扱ヲ入眞田父子ヲ降ラセヨト仰有ケレハ他家ヨリ討手ヲ望ム事ハ叶ハサリケル、時ニ伊豆守信之ハ家康公ノ仰ヲ蒙リテ信州ヘ下リ、父安房守ニ對面シテ家康公ノ仰ヲ語テ様々ニ異見ヲ加フ、爾レトモ昌幸曾テ承引ナク汝ハ數年家康公ニ從ヒ其上ニ縁者ノ好ミモ有ハ別テ懇意セラルト聞、ナレハ父カ爲ニ一命ヲ捨テ家康公ヲ刺殺スヘシト有ケレハ、信之對シテ年來家康公厚恩ニ預テ父ノ仰ナレハトテ害心ヲ起サン謂レナシ、今度關東へ敵對シ玉ヘハ父ナカラモ君ノ敵也、唯今雌雄ヲ決センハ安ケレトモ御使ニ來テ其子細モ申上ス私ニ討果サハ君ヘノ不忠也、重テ勝負ヲ仕ラン支度ヲナシ待玉ヘト坐ヲ立テ歸ケレハ、昌幸尤也ト對ヘ我子ナカラモ敵ナレハ安穏ニハ歸サシトテ足輕ノ兵ヲ以テ跡ヲ追セケリ、信之ハ馳歸テ右ノ次第ヲ有ノ儘ニ申上ル、家康公ハ父子ノ武勇忠節ヲ彌御感有テ爾ル上ハ汝馳向ヒ父ト弟トカ首ヲ刎テ來ルヘシ爾ルニ於テハ信州一圓百万石ヲ賜ルヘシト仰ケリ、伊豆守畏奉ルノ由ヲ申シ御前ヲ立テ宿所ヘ歸リ出陣ノ用意ヲナシ其後家廉公ノ御目通ヲ用有ケニ立廻ル、家康公仰ケルハ何トテ來ル哉、出陣延引セント尋玉フ、伊豆守畏テ今度父カ討手ヲ仰付ラレ候コトハ身ニ余リ有難奉存候也、併ラ家人ノ安堵ノ爲二候間何卒御恩賞ノ御朱印ヲ頂戴シ出陣仕度ト申上ル、家康公聞シ召レ暫ク御思案有ケルカ誠ニ安堵ノ爲ナレハトテ即御朱印ヲ下サレケル、伊豆守謹テ頂戴有、宿處ヘ立歸リ陣用意ヲナシテ又御前ヘ出テ、御願申上ル儀候テ罷出ル旨ヲ申ス、家康公仰ニ手勢不足ナルニヨリ加勢ヲ願哉ト御尋有ケレハ、伊豆守申上ルハ今度安房守カ御敵仕ルニ付テ諸將討手ヲ望ム處ニ御情ヲ以某ニ討手ヲ仰付ラルゝノ義ハ生前ノ面目有難キ仕合ニ候也、夫ニ就テ今度父カ命ヲ御助ケ下サレナハ此上ノ御厚恩ナラン、然ラハ先立テ拝領仕ル信州一圓賜ル處ノ御朱印ヲ返上仕リ度ト泪ヲ流シ言上有ケレハ、家康公頗ル御機嫌損シテ、兎角ノ仰モナク奥ヘ入玉ヒシカ暫ク有テ又伊豆守ヲ御前ヘ召レテ仰ケルハ、汝カ父安房守ハ度々我ニ敵對ヲナシ其上ニ此度モ石田ニ與シ謀叛人ノ張本一人二人ノ内ハ必ス死刑ニ究ル者也、然レトモ汝我ニ仕ヱテ忠節ヲ勵ミ聊モ私ナシ、其忠信ヲ感シ思フ處ナレハ唯今父安房守ト弟左衛門佐カ一命ヲ汝ニ與ル也、早速高野山ヘ遣スヘシト仰有ケレハ、伊豆守大ニ悦ヒ有難キ旨ヲ御禮申上テ直ニ信州ヘ趣テ家康公ノ仰ヲ具二申ケレハ、安房守・左衛門佐即上田ノ城ヲ出近臣少々ヲ召連テ高野ヘ趣テ久土山ト云處ニ蟄居有、安房守昌幸ハ慶長十八年ニ高野ニ於テ病死有、左衛門佐ハ慶長十九年ニ秀頼卿謀叛ノ時ニ大坂ノ城ヘ楯籠リ武勇ヲ天下ニ輝シ同廿年五月七日ニ討死有、去程ニ上田ノ城ヲハ伊豆守ニ賜リケリト云々
私ニ云、此事ハ安房守昌幸傳記并伊豆守信之傳記ト見合ナハ事正シカルヘキ也、今皆参考ノ爲ニ或記共ヲ擧ル者也