後の上田陣起こりの事

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現代語

後の上田陣起こりの事

  慶長五年(一六〇〇)の春、上杉中納言景勝はその領地奥州会津にあって上洛せず、叛逆を企てているという理由で、家康公は大軍を率いて上杉家征伐のために関東へ下向された。この時、昌幸父子三人も家康公の供奉(ぐぶ) (お供)をして関東へ向かった。そのようなところに、上方において石田治部少輔が挙兵し伏見城を攻め落としたことなどを記した書状を浮田(うきた) (字喜多)秀家(ひでいえ)毛利輝元(もうりてるもと)前田玄以(まえだげんい)石田三成(いしだみつなり)増田長盛(ましたながもり)長束正家(ながつかまさいえ)らが昌幸に寄こし、仲間に加わるよう誘った。
○この時の始末は、詳細に「昌幸伝記」と「信之伝記」の中に記しておくので、今ここには略して載せない。
この時の昌幸方への石田三成方からの書状が数通ある。その書状(の一つ)には、次のようなことが書かれている。

◎石田三成からの書状

わざわざ申し入れる。

一 この飛脚、早々沼田越えに会津へお通しいただきたい。万一沼田・会津の間に他領があり難しいことがあっても、付き添いを付けるなり、報酬を与えるなりしてもてなし、お通し下さる事
一 先の書状にも申し上げたとおり、早々小諸・深志・川中島・諏訪については貴殿に仰せ付けられるので、しっかりと仕置き(統治)をされたい。できるだけのてだて(反徳川の挙)に出るのは今この時である事
一 ともかく、物主(武将)どもがそれぞれの城へ帰らないようにするご才覚が肝要である事
一 会津(上杉景勝)へも早々に関東表の佐竹(さたけ) (常陸侍従義宣(よしのぶ)と相談し、てだて(反徳川の挙)に出るようにと申し遣わした。貴殿からも入魂(懇ろ)に仰せ遣わされるようにしてほしい事
一 越後からもひたすら秀頼様へ御奉公するとの旨を申し寄こしているので、妻子も上方に(人質として)いることでもあり偽りはないであろう。羽柴肥前(羽柴肥前守、前田利長(まえだとしなが)母を(人質として)江戸へ遣わしたためか、いまだはっきりとした返事はない。その上でひたすら上方へご奉公と申している。羽柴五郎左(羽柴五郎左衛門、丹羽長秀(にわながひで)が手前へ軍兵を出しているので、越後から越中へ軍兵を出すつもりである旨を申し寄こしている。必ず相違はないであろう事
一 関東へ下る上方勢はようやく尾三(尾張・三河)の内へ上り、(ただ)(質す)ところ半ばである。それぞれ承わったことから(立場を)究め済みである事
一 先の書状にも申し上げた伏見のことは、内大臣(徳川家康)の留守居として鳥居彦右衛門(元忠)・松平主殿・内藤弥左衛門父子千八百余りが立て籠っていた。去る七月二十一日から取り巻き、当八月一日(うま)(昼の十二時ころ)強引に四方より乗り込み、一人も残さず討ち果たした。大将鳥居の首は鉄砲頭の鈴木孫三郎が討ち捕った。その上で城内ことごとく火を掛け焼き討ちにした。鳥居彦右衛門は石垣を伝って逃げた(逃げようとした?)とのことである。誠にこのように、即座に攻め崩したことは人間の業ではないとそれぞれ話し合った事
一 先の書状でも申し上げた丹後(京都府北部)のことは、一国を平定した。幽斎(ゆうさい)(細川藤孝(ほそかわふじたか)については一命を助け、高野(高野山)蟄居(ちっきょ)させ済ませることにした。長岡越中守(細川忠興(ただおき)の妻子は人質にして置くように申したところ、留守居の者が聞き違えて殺害つかまつれと存じ刺し殺し、大坂の家に火を掛け果てた事
一 備えの人数書きご披見のためこれをお送りする。こちらのことは安心してほしい。この節その方が公儀へご奉公あって、一国をご拝領あることについては天の与えるところなので油断があってはならない事
一 拙者(石田三成)は、岐阜中納言殿(織田秀信、信長の孫、幼名三法師)と相談し、まず尾州(尾張)表へ軍兵を出した。福島左衛門大夫(正則)はただ今理す(質す)ところ半ばである。うまく済んだならば三州(三河)表へ打ち出ようと思っている。もしうまく済まなかった場合は(福島正則の居城がある)清洲へ勢州(伊勢)(の軍)と一緒に成って(出張って)行くつもりである。
なお、よい返事をお聞きしたいと願っている。恐る恐る謹んで申し上げた。

八月五日

 

三成   (花押)

真田房州(安房守昌幸)

同  豆州(伊豆守信之)

同左衛門介(信繁)殿

 

人々御中

夜中に(書状を)調えたので、落字はいかがであろうかと心もとなく思っている。以上


三口への御人数備えの覚

伊勢口

一 四万千五百人

安芸中納言殿(毛利輝元)

右のうち一万人息藤七(藤七郎、秀就(ひでなり)殿付けこれあり。右三万余りは輝元自身召し連れ出馬。

一 一万八千人

秀 (字喜多(うきた)秀家)

一 八千人

筑前中納言(小早川秀秋(こばやかわひであき)

一 二千百人

土佐侍従(じじゅう) (長曽我部盛親(ちょうそかべもりちか)

一 千人

大津宰相(さいしょう) (京極高次(きょうごくたかつぐ)

一 三千九百人

立花(たちばな)左近(左近将監宗茂(むねしげ)

一 千人

久留米侍従(毛利秀包)

一 五百人

筑紫主水(主水正広門)

一 九千八百人

龍造寺(勝茂)

一 千二百人

脇坂(わきざか)中書(中務少輔安治(やすはる)

一 三百人

堀内安房守(氏善)

一 四百人

羽柴下総守(長正)

 城加番

一 四百人

山崎右京

一 三百七十人

蒔田権之助(広定)

一 三百九十人

中居式部少輔(しきぶしょうゆう)

一 千人

長束大蔵大輔(おおくらだゆう) (正家)

 以上七万九千八百六十人(八万九千八百六十人となる。どこかに書き間違いがあると思われる。)

美濃口

一 六千七百人

(それがし)石田治部(治部少輔三成)

一 五千三百人

岐阜中納言(織田秀信)一手

一 千四百人

羽柴右京・稲葉彦六(侍従典道)

一 五千人

羽柴兵庫頭(ひょうごのかみ) (島津義弘(しまづよしひろ)

一 二千九百人

小西(こにし)摂津守(行長(ゆきなが)

一 四千人

同与力衆四人

一 四百人

稲葉甲斐守(通重)

 以上二万五千七百人

北国口

一 千二百人

大谷(おおたに)刑部少輔(吉継(よしつぐ)

一 三千人

若狭少将(木下勝俊(きのしたかつとし)・同宮内少輔(木下利房)

一 五千人

丹後七頭衆

一 二千五百人

但馬二頭衆

一 七百人

木下山城守(頼継)

一 八百人

播磨姫路衆

一 二千人

越前東江衆

一 五百人

戸田武蔵守(重政)

一 五百人

福原右馬允(うまのじょう) (長尭)

一 三百人

溝口彦三郎

一 三百人

上田主水正(重安)

一 五百人

寺西下野守(清行)

一 五百人

奥山雅楽頭(うたのかみ) (正之)

一 二千五百人

小川土佐守(祐忠)・同左馬允

一 千人

生駒雅楽(頼世)

 ただし、主煩うゆえ家老名代、人数召し連れ候

一 二千人

蜂須賀(はちすか)阿波守(家政(いえまさ)

 ただし、主煩うゆえ家老名代

一 六千人

青木紀伊守(一矩)

一 八百人

青山修理(修理亮忠元)

 以上三万百人

勢田橋東番衆

一 千二十人

太田飛騨守・同美作守

一 四百五人

垣見和泉守(一直)

一 四百五人

熊谷内蔵(内蔵允直盛)

一 六百人

秋月長門守(種長)

一 八百人

相良左兵衛佐(頼良)

一 八百人

高橋右近(右近大夫元種)

一 五百人

伊藤豊後

一 三百六十人

竹中伊豆守(重利)

一 千五百人

中川修理(修理大夫秀成)

一 五百二十人

木村弥一右衛門(豊後守吉清)

 以上六千九百十人

一 大坂御留守居

七千五百人

   御小姓衆

八千三百人御馬回り

   御弓鉄砲衆

五千九百人

   前備後備

六千七百人

   輝元(毛利)

一万人

   徳善院(前田玄以)

千人

   増田右衛門尉(長盛)

三千人

 このほか七千人  伊賀在番

 以上四万二千四百人(四万九千四百人となる。どこかに書き間違いがあると思われる。)

都合 十八万四千九百七十人なり

   八月五日

 ○このほかにも石田三成方から昌幸への書状があるので、附録として記しておいた。

 このように石田三成方から密書を送ってきたので、昌幸は深く思慮をめぐらし父子の間を引き分けて、信州上田の城へ引き返して籠城した。

 

原文

上田軍記之下

此巻ニハ慶長五年之上田城合戰之事ヲ記ス

後之上田陣起之事

慶長五年庚子ノ春ヨリ上杉中納言景勝其領地奥州會津ニ在テ上洛セス叛逆ヲ企ケルノ故ニ、家康公大軍ヲ引率シテ上杉家ヲ征伐ノ爲ニ関東へ御下向有、昌幸父子三人モ此時家康公ノ供奉トシテ關東ヘ下向有シ處ニ、上方ニ於テ石田治部少輔叛逆ヲ起シ伏見ノ城ヲ攻落シタル事共ヲ浮田秀家・毛利輝元・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家等ヨリ書状ヲ以テ申送リ昌幸ヲ相語ラフ
 此時ノ始末ハ詳ニ昌幸傳記ト信幸傳記ノ中ニ記シ置故ニ今此ニ畧シテ載セス
此時ニ昌幸ノ方ヘ石田三成カ方ヨリ書状數通有、其文ニ云ク

態と申入候

一 此飛脚早々沼田越に會津へ御通候而可給候、自然沼田・會津之間に他領候而六ケ敷儀在之共、人數立候而成共そくたくに成共御馳走候而御通可有候事
一 先書にも如被申候、貴殿事早々小室・ふかせ・河中島・諏訪之儀貴殿へ被仰付候間、急度可有御仕置候、可成程御行此時に候事
一 兎角物主共城々へ不罷歸御才覺肝要候事
一 會津へも早々關東表へ佐竹被仰談行ニ可被及由申遣侯、貴殿よりも御入魂候而可被仰遣候事
一 從越後も無二ニ秀頼様へ御奉公可申旨中越候間妻子も上方に在之事候條僞も在之ましく候、羽肥前儀母江戸へ遣候故か未たむさとしたる返事候、剰無二ニ上方へ御奉公と申候、羽柴五郎左へ手前へ人數を出候間、自越後越中へ人數可被出旨申越候、定而相違有間敷候事
一 關東へ下る上方勢漸尾三内へ上り御理申半に候、それそれに承候儀究候而相濟候事
一 先書にも申候伏見之儀内府爲留守居鳥居彦右衛門・松平主殿・内藤彌左衛門父子千八百余たて籠候、去月廿一日より取巻當月朔日午刻無理に四方より乗込一人も不殘討果候、大將鳥居首は御鐡炮頭鈴木孫三郎討捕候、然而城内悉火を掛焼討に致し候、鳥居彦右衛門は石垣を傳ひ逃候由候、誠かやう成儀即座に乗崩候儀人間之業にて無之と各申合候事
一 先書にも申候丹後之儀一國平均に申付候、幽齋儀は一命をたすけ高野之住居之分に相濟申候、長岡越中妻子は 人質に可召置候由申候處、留守居之者聞違生害仕と存さしころし大坂之家に火をかけ相果候事
一 備之人數書爲御披見進之候、此方之儀可御心安候、此節其方之儀公儀有御奉公國數可有御拝領義天之あたふる儀候間御油斷在之間敷候事
一 拙者儀先尾州表ヘ岐阜中納言殿申談人數出候、福島左太只今御理申半ニ候、於相濟者三州表ヘ可打出候、もし於不相濟は清須へ勢州口一所に成候而可及行候、猶吉事可申承候、恐々謹言
  八月五日

 

三成 判<花押>

眞田房州

同 豆州

同左衛門介殿

      人々御中

 夜中に相調候間落字如何無心元候、以上


 三口へ之御人數備之覺

伊勢口

一 四万千五百人

安藝中納言殿

 右之内一万人息藤七殿付有之、右三万余ハ輝元自身召連出馬

一 一万八千人

秀 家

一 八千人

筑前中納言

一 二千百人

土佐侍從

一 千人

大津宰相

一 三千九百人

立花左近

一 千人

久留米侍從

一 五百人

筑紫主水

一 九千八百人

龍造寺

一 千二百人

脇坂中書

一 三百人

堀内安房守

一 四百人

羽柴下総守

城加番

一 四百人

山崎右京

一 三百七十人

蒔田權之助

一 三百九十人

中居式部少輔

一 千人

長束大藏太輔

 以上七万九千八百六十人

美濃口

一 六千七百人

某石田治部

一 五千三百人

岐阜中納言一手

一 千四百人

羽柴右京・稲葉彦六

一 五千人

羽柴兵庫頭

一 二千九百人

小西摂津守

一 四千人

同與力衆四人

一 四百人

稲葉甲斐守

 以上二万五千七百人

北國口

一 千二百人

大谷刑部少輔

一 三千人

若狭少將・同宮内少輔

一 五千人

丹後七頭衆

一 二千五百人

但馬二頭衆

一 七百人

木下山城守

一 八百人

播磨姫路衆

一 二千人

越前東江衆

一 五百人

戸田武藏守

一 五百人

福原右馬允

一 三百人

溝口彦三郎

一 三百人

上田主水正

一 五百人

寺西下野守

一 五百人

奥山雅樂頭

一 二千五百人

小川土佐守・同左馬允

一 千人

生駒雅樂

 但主煩故家老名代人數召連候

一 二千人

蜂須賀阿波守

 但主煩故家老名代

一 六千人

青木紀伊守

一 八百人

青山修理

 以上三万百人

勢田橋東番衆

一 千二十人

太田飛騨守・同美作守

一 四百五人

垣見和泉守

一 四百五人

熊谷内藏

一 六百人

秋月長門守

一 八百人

相良左兵衛佐

一 八百人

高橋右近

一 五百人

伊藤豊後

一 三百六十人

竹中伊豆守

一 千五百人

中川修理

一 五百二十人

木村彌一右衛門

 以上六千九百十人

一 大坂御留守居

七千五百人

   御小姓衆

八千三百人御馬廻

   御弓鐡炮衆

五千九百人

   前備後備

六千七百人

   輝元衆

一万人

   徳善院

千人

   増田右衛門尉

三千人

   此外七千人 伊賀在番

 以上四万二千四百人

都合 拾八万四千九百七十人也

  八月五日

此外ニ昌幸ヱ石田三成カ方ヨリノ書状トモ有、附録ニ記シ置タリ、如是ニ石田三成カ方ヨリ謀書ヲ送リケレハ昌幸深ク思慮ヲ廻シ父子ノ間ヲ引分レテ信州上田ノ城ヱ引返シテ籠城アリケリ