昌幸父子秀吉公へ謁見の事

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現代語

昌幸父子秀吉公へ謁見の事

 やがて、昌幸父子は存分に勝利を得て、家康公と手切れをした。そして、秀吉公へ臣従しょうと考えたが、遠国のためにしかるべき(つて)もなかった。そのころ、上田へ年々来ていた春松太夫という舞太夫が「秀吉公へもお目見えし、富田左近(さこん)将監(しょうげん)(知信、秀吉の家臣)とも親しい」というので、かの春松太夫を使って「秀吉公へ出仕をいたしたき」旨を富田方まで申し入れた。すると直ちに話が調い、昌幸父子三人は上方へ上り、大坂において秀吉公にお目見えした。その際、秀吉公から「真田は親か、子か」と尋ねられた。昌幸が「子でございます」と答えると、秀吉公は「いまだ年も若いのに名は高し」と言って、ご褒美として御腰の物を手ずから下された。こうして、秀吉公の取り扱いで前々のごとくに家康公へも出仕することとなった。
○ある記によると、この節昌幸は家康公に背いて秀吉公へ出仕のことをお願いしたが、秀吉公は使者として尾藤左衛門尉(さえもんのじょう)(知宣)を遣わされて「早速出仕を遂げられよ」と仰せられた。こうして昌幸父子三人は上方へ上り、秀吉公へお目見えした。その後、秀吉公の扱いで、家康公とも和睦した。そして、天正十七年(一五八九)には沼田の地を昌幸から北条家へ渡した。その替地は信州にて出されたが、程なく北条家が滅亡したので、また昌幸は沼田の地を返し賜わったと云々。

○ある記によると、家康公が「沼田を北条家へ渡せ」と昌幸に命じられた時、昌幸はこれを承知せず「それがしが武勇をもって手に入れた所領であるから、どうして差し上げることができましょう」と返答した。その後、使者を大坂の秀吉公へ遣わし、右の子細を申し送り「今後は秀吉公にお仕えしたい」と伝えた。秀吉公は大いに喜び「軍功があったならば、すぐにも恩賞を与えよう」と返答があった。この事実は少しも隠すところがなかったので、伝え聞いた家康公は「何度でも訴訟すべきなのに、そうではなくして家康の手を離れ、秀吉に属するのは言語道断の仕方である。急ぎ勢のつかないうちに退治せよ」と言って、大久保忠世と鳥居元忠・平岩親吉を大将として、一万騎の軍勢を上田の城へ向けられたと云々。

 

原文

昌幸父子秀吉公江謁見之事

去程ニ昌幸父子ニハ存分ニ勝利ヲ得ラレテ家康公ヘ手切有ケレハ秀吉公ヘ隨順有ヘシトノコト成トモ遠國タルノ故ニ爾ルヘキ傳モ無處ニ其頃上田ヘ年々來リケル春松太夫ト云舞太夫秀吉公ヘモ目見ヘシ富田左近將監トモ親キ由ヲ申ニ付テ彼春松太夫ヲ以テ秀吉公ヘ出仕ヲ致度旨富田カ方迄仰入ラレケレハ早速ニ相調ニ依テ昌幸父子三人ニテ上方ヘ登リ大坂ニ於テ秀吉公ヘ先御目見ヘ有ケレハ秀吉公仰ケルハ、眞田ハ親歟子歟トノ御尋也、時ニ昌幸對シテ子ニテ候ト仰ケレハ秀吉公開召未タ年モ若ク候ニ名ハ高シト、殊ニ御褒美有テ御腰物ヲ手自下サレケリ、斯テ秀吉ノ御執扱ニテ家康公ヘモ前々ノ如ク御出仕有
 或記ニ云、此節家康公ヘ相背セラレシニ依テ秀吉公ヘ出仕ノコトヲ仰入ラレケレハ尾藤左衛門尉ヲ秀吉公ヨリ指下サレ早速出仕ヲ遂ラルヘシト仰下サル、是ニ依テ昌幸父子三人上方ヘ御登秀吉公ヘ目見ヘ有、其後ニ秀吉公ノ扱ニテ家康公トモ御和睦有、天正十七年ニ沼田ノ地ヲ昌幸ヨリ北條家ヘ御渡有、其代地ヲ信州ニテ出サレシカ程ナク北條家モ滅亡有ケルニヨリ、又沼田ノ地ヲ初ノ如ク昌幸ヘ返シ賜リケルト云々
 或記ニ云ク、沼田ヲ家康公ヨリ北條家へ渡スヘシト昌幸ノ方ヘ仰入ラレシニ、昌幸此事承引ナク、某カ武勇ヲ以切取處領ナレハ得コソ指上候マシト返答有テ、其後ニ使者ヲ大坂ヱ指登セテ秀吉公ヱ右ノ子細ヲ申送ラレ自今以後ハ秀吉公ニ屬セント有ケレハ秀吉公大ニ悦ヒ軍功有ニ於テハ不日恩賞ヲ行フヘシトソ返答有、此事隱レナカリケレハ家康公聞及玉ヒテ幾度モ訴訟有へキニ左ハ無シテ家康カ手ヲ離レ秀吉ニ屬スルハ言語道斷ノ仕合也、急キ勢ノ附ヌ其内ニ退治セヨトテ大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉ヲ大將トシテ一万騎ノ勢ヲ上田ノ城へ向ケラレケルト云々