浜松勢上田表引き退く事

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現代語

浜松勢上田表引き退く事

 上田表の合戦に寄せ手は毎度討ち負けてしまったので、遠州へ軍使を馳せて加勢を請うた。家康公はこれを聞いて「早く軍兵を引き取らせよ」と下知された。けれども上田の城兵が食い付いて戦を仕掛けるので、引き取ることがなかなかできなかった。そのため遠州から 井伊兵部少輔直政(いいひょうぶしょうゆうなおまさ)松平周防守康重(まつだいらすおうのかみやすしげ)の両人が「信州に赴き人数を引き取れ」と家康公より命ぜられた。井伊直政と松平康重は五千人の軍勢を率いて、天正十三年(一五八五)九月十三日に上田表に着陣した。毎度の恥辱をそそごうと思ったのであろうか、二十余日対陣して度々軍を仕掛けたが城中からは一人も出ず、取り合わなかった。このような時に松平周防守の忍びの者たちが、周防守に「真田安房守が越後へ加勢を請われました。また甲州の広淵寺に故武田四郎勝頼の御舎弟龍峯(龍芳)<目が不自由。俗名武田大夫。海野殿と号す>と申す住職がおります。これを真田の家来らが取り立て一揆を起こそうと謀っている様子です」と告げた。周防守はこれを聞いて井伊直政に告げた。直政は「越後から加勢を出すほどならば、定めて大軍であろう。また一揆が所々に起きるならば、昌幸は思慮探き大将なので、いかなる謀をしておくかも測り難い。味方の軍勢は(国元とは)路を遠く隔てている。その上度々の負け軍で気疲れもしているので、戦っても利あるまい。その上家康公の仰せは我々に人数を引き揚げて帰れと言われたのに、今戦を企て、もしも多く人数を討たせては甲斐もないことである」と、この旨を諸大将へ相談した。その時、大久保七郎右衛門忠世が「総勢が引き取るといっても、押さえの兵を残しておくのがよかろう」と言った。井伊も松平も「もっとも」と同意したが、自分が「上田の押さえに残ろう」と言う者は一人もいなかった。大久保忠世が舎弟平助忠教を近くに呼んで「なんじ、真田の押さえとしてこの国に残れ」と告げると、平助は「我、所領に望みあってここにとどまるのではありません。主君のため兄の命令に従ってここに残りましょう」と言った。忠世は大いに喜んで井伊と松平に告げ、 小諸の城(小諸市小諸)に大久保平助を入れ置き、「信州の先鋒衆、諏訪・保科・知久・遠山・下条・大草の面々は居城・居館に籠って、大久保平助の催促に従え」と申し渡した。そして、十一月に遠州勢はことごとく陣払いし、上田表から引き取った。それに際して「城中より後を追い慕うこともあるだろう」と段々に備えを立て、新手の井伊直政・松平康重の両人が殿(しんがり) としてはるか後から引き退いた。これは、このたび両人が上田表へ来たのに矢の一つも射ないで引き返すのを残念に思い、「もし城中より追い慕って来たならば一戦せん」とのことからであったという。この時、昌幸の家臣が「遠州勢は既に人数を引き揚げています。その中で井伊・松平はわずか四、五百騎の軍勢で、先手に離れて引き退いております。こちらから足軽を出して食い止めるならば、もらさずに討ちとどめることができましょう」と言った。これを聞いた昌幸は「以前、寄せ手の大将の大久保が軍兵を引き揚げようとしたことが度々あったが、我が勢に食い止められてついに軍を帰すことができなかった。そこへ、このたび遠州からいまだ若年の井伊と松平周防守とが来て軍を仕掛けている。その軍立てを見ると、以前の寄せ手などとは大いに変わったところがある。その上、井伊が手には近藤登之助<石見守の子>をはじめとして、遠州で名のある者どもや武田家より降った者が多く来ている。また、井伊も若年だからといって侮る侍ではない。松平周防守は、それ以上に名高き剛の者である。今日の退き口の人数の立て方を見よ。尋常の者ではない。今、彼らを小勢だと見侮って軽はずみに打ち出たならば、不覚の負けを取るに違いない。両人が退き方はこちらから追い慕わせ、一戦しようと軍を持した引き口である。決してこれを追い慕ってはならない」と制せられた。そのため、井伊・松平の両人ともやすやすと人数を引き揚げ、遠州へと帰って行った。

 

原文

濱松勢上田表引退事

上田表ノ合戰ニ寄手毎度討負ケレハ遠州ヘ軍使ヲ馳テ加勢ヲ乞フ、家康公是ヲ聞シ召レテ早ク軍兵ヲ引取ヘシト御下知有、爾レ共上田城兵喰止テ戰ヲ仕掛ケレハ引取コト叶ハス、是ニ依テ遠州ヨリ井伊兵部少輔直政・松平周防守康重兩人信州ニ趣キ人數ヲ引取ヘキ旨ヲ家康公ヨリ命セラレケレハ、井伊直政・松平康重五千人ノ軍勢ヲ引具シ同九月十三日ニ上田表ニ着陣有、前度ノ耻辱ヲ雪カント哉思ケン二十余日對陣シテ度々軍ヲ仕掛ケレトモ城中ヨリハ一人モ出スシテ更ニ是ニ取合ス、係ル處ニ松平周防守カ忍ノ者トモ周防守ニ申ケルハ眞田安房守ヨリ越後ヘ加勢ヲ乞レ候也、又甲州廣淵寺ニ故武田四郎勝頼ノ御舎弟龍峯<盲人也、俗名武田大夫、號海野殿>ト申ス住持職ニテ有、是ヲ眞田ノ家人等取立テ一揆ヲ起サント謀ル由也トソ告タリ、周防守是ヲ聞テ井伊直政ニ語ル、直政越後ヨリ加勢ヲ出ス程ナラハ定テ大軍成ヘシ、又一揆處々ニ起ナハ思慮深キ大將成ハ如何成謀ヲ成置ルモ量リ難シ、味方ノ勢ハ遠路ヲ隔夕リ、其上度々ノ負軍ニテ氣疲レタル事ナレハ戰フトモ利有間シ、其上家康公ノ仰ニハ兩人ニ人數ヲ引揚テ歸レトコソ宣フニ、今戰ヲ企テ若モ多ク人數ヲ討セテハ詮モナキコト也迚諸大將ヘ此旨ヲ談シケル、時ニ大久保七郎右衛門忠世カ云ク、惣勢引取ト云トモ壓ノ兵ヲハ殘置テ爾ルヘシト有ケレハ、井伊・松平最ト同シテ評諚有ケレトモ上田ノ壓ニ殘ント云者一人モナシ、大久保忠世ハ舎弟平助忠教ヲ近付テ、汝眞田カ押トシテ此國ニ殘ルヘシト有ケレハ、平助對テ申ケルハ、我所領ニ望有テ此處ニ留ルニハ非ス、主君ノ爲兄ノ命ニ隨テ此處ニ殘ヘシトソ申ケル、忠世大ニ悦ヒ井伊・松平ニ斯告ケレハ小諸ノ城ニ大久保平助ヲ入置信州ノ先鋒衆諏訪・保科・知久・遠山・下條・大草ノ面々ハ居城・居館ニ籠テ大久保平助カ催促ニ從フヘキ旨ヲ申渡シテ、同十一月遠州衆ハ悉ク陣拂シテ上田表ヲ引ニケル、若モ城中ヨリ跡ヲ慕フコトモヤ有ン迚、段々ニ備ヲ立テ後殿ヲハ新手ナレハ井伊直政・松平康重兩人遥ノ後ヨリ引退ク、是ハ今度兩人上田表ヘ來ケレトモ矢ノ一ツモ射スシテ引返スヲ殘多思ヒ若城中ヨリ慕ヒ出ハ一戰セントノ事也トソ聞ヘケル、此時ニ昌幸ノ家臣申ケルハ、遠州勢既ニ人數ヲ引揚候也、其中ニ井伊・松平ハ僅四五百騎ノ勢ニテ先手ニ離レテ引退キ候也、此方ヨリ足輕ヲ出シテ喰止メナハ洩サス討留申ヘシト云ケレハ眞田是ヲ聞テ已前寄手ノ大將大久保カ軍兵ヲ引揚テ軍ヲ班ントセシコト度々成トモ我勢ニ喰止ラレテ終ニ軍ヲ班シ得サル處ニ此度遠州ヨリ末タ若年ノ井伊ト并ニ松平周防守ト來テ軍ヲ仕掛ル、其軍立ヲ見ルニ最前ノ寄手等ト大ニ替リタル處有、其上井伊カ手ニハ近藤登之助<石見守子>ヲ始トシテ遠州ニテ名有者共并ニ武田家ヨリ降参シタル者多ク來レリ、又井伊モ若年也迚侮ル侍ニ非ス、松平周防守ハ猶以名高キ剛ノ者也、今日ノ退口ノ人數ノ立様ヲ見ルヘシ尋常ノ者ニ非ス、今彼等ヲ小勢成ト見侮リテ卒時ニ打出ル者成ハ不覚ノ負ヲ取へキソ、兩人カ退様ハ此方ヨリ慕セ一戰セント志テ軍ヲ持タル引口也、必ス是ヲ慕フヘカラスト制セラレケレハ、井伊・松平兩人モ安々ト人數ヲ引揚テ遠州ヘソ歸リケル