明治中期までの蘇民将来符
明治8年のものは、春原家最初の一体である。農作物の豊作を願ったのであろう、大根と小さなねずみの絵が人の心をとらえる。 明治15年は、米価が半額に下がり、まゆ、生糸の値下がりがあって、全国的に不景気の波がおそった年である。その波を押し返すように「蚕大当り」の文字が力強く書かれている。明治21年のものは、日本人ばなれをした人物が筆を持つ一風変った絵柄である。
明治8年から明治24年、この年代は日本が欧米文化をとり入れ文明開化*1の年代である。また明治政府の方針、政策に不満をもつ人の中から自由民権運動*2が生まれてくる。そして、明治22年には帝国憲法の発布、明治23年に第1回の帝国議会が開かれ、日本の国際的地位も向上した年代でもある。
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*1文明開化人間の知力が進み世の中が開けること。特に、明治初期の思想・文化・社会制度の近代化や西洋化をいう。 *2自由民権運動明治初期、藩閥専制政治に反対し国会開設・憲法制定などを要求した政治運動。1874年(明治7)、板垣退助らによる民撰議院設立要求に始まり、国会期成同盟を中心に全国的に広まった。運動は81年、10年後の国会開設を約束する詔勅を引き出し、自由党や立憲改進党などの政党結成へと進んだが、政府の弾圧強化と運動内部の対立、福島事件や加波山事件など激化事件が相つぐなかで衰えた。しかし国会開設が近づくと、旧自由党の星亨らは86年民権派の再結集を呼びかけ(大同団結運動)、87年、三大事件建白運動が起こり、全国から自由民権家が上京した。それに対し政府は保安条例を出して在京の民権派を東京から追放し、運動は鎮圧された。 |
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