烏帽子形の城合戦の事

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現代語

烏帽子形の城合戦の事

 この時、信州小県郡内の塩田辺(上田市の塩田を含めた川西方面)の者たちが杉原四郎兵衛という者を大将として一揆を起こした。家康公の味方として近隣を略奪し、冠者ケ岳(子檀嶺岳)烏帽子形の古城を修復して立て籠った。昌幸はこれを討つため、嫡子源三郎信幸に軍兵を添え、冠者ケ岳へ向かわせた。信幸が出馬して、かの方面を巡見した時に、馬屋 別当(馬丁)の水出大蔵という者が信幸の前に進み出て、「この城の姿を見ますと、前は険阻(けんそ)ですが後ろはなるくなっております。鉄砲の者を後ろの方へ回し、後ろから撃ったならば城中は(こら)え難いでありましょう」と申し述べた。信幸は「もっとも」とおぼし召されて、大蔵の言うように鉄砲の者を後ろへ回し、山の峰へ撃ち掛けさせた。そして、山の下にある堂の中に入って鬨をあげさせ、さらに堂の板をたたいて鬨を合わさせた。すると、思ったとおり一揆の者たちは一支えもしないでことごとく敗北した。落ちて行くところを追い討ちにし、数多の者たちを討ち捕らえた。一揆の大将杉原四郎兵衛をはじめとして、生け捕りにした者も数多あった。昌幸は、前に引き出された杉原を見て「かの者は由緒ある者である。いずれ役にも立つ者である」と言って直ちに赦免し、信幸の家来の列に加えた。
 後に信幸は、この城が即時に落城したことを「水出の一言はだれもが知っていることではあるが、その時に当たると気の付かないものである。まったく馬屋別当の出過ぎた行為ではあるが、彼はこの地の様子をよく知っている者である。大蔵の謀を用いて勝利を得たのはまだ新しい(最近の)ことではあるが、戦場では特にその人に(よ)るのではなく、道理に(したが)い、よろしきに任せなくてはならない。身分の軽い者であると言って侮り、大蔵の申すことを聞き入れなければ、この城は一時には落ちなかったであろう。堂の内へ入って鬨の声をあげたのも水出の謀である。多勢のように響かせようと謀ったのだ」と語った。また、水出にはご褒美が与えられたという。

 

原文

烏帽子形之城合戰之事

此時ニ信州小縣郡之内ノ塩田邊ノ者共杉原四郎兵衛ト云者ヲ大將トシテ一揆ヲ起シ、家康公ノ味方トシテ近隣ヲ掠メ冠者カ嶽烏帽子形ノ古城ヲ取立テ楯籠ル、昌幸彼ヲ討ンカ爲ニ嫡子源三郎信幸ニ人數ヲ副テ冠者カ嶽ヘソ向レケル、信幸出馬有テ彼筋ヲ巡見有シニ馬屋別當ニ水出大藏ト云者有シカ、信幸ノ前ニ來テ申ケルハ此城ノ体ヲ見申ニ前ハ嶮岨ニシテ後ハナルク候也、鐡炮ノ者ヲ後ノ方ヘ廻シ後ノ方ヨリ打申ナハ城中怺ヘ難ク候ハント申ケレハ、信幸最ト思サレ大藏カ申如クニ鐡炮ヲ廻シ後ヨリ山ノ峯ヘ打立サセテ、信幸ハ山ノ下ニ堂ノ有ケルニ彼堂ノ中ニ入鬨ヲ上サセラレ堂ノ板ヲ敲テ鬨ヲ合ケレハ案ノ如ニ一揆ノ者共一支モセス悉ク敗北シテ落行處ヲ追討ニシテ數多討捕、一揆ノ大將杉原四郎兵衛ヲ始トシテ生捕モ數多有、杉原ハ昌幸ノ前ニ出ケルヲ昌幸見玉ヒ彼者由緒有者也、用ニモ立ヘキ者也迚則赦免有、信幸ノ家人ノ列ニ召遣レケリ、此城ノ即時ニ落城セシコトヲ信幸後又物語有ケルハ水出カ一言ハ誰モ知タルコト成共、時ニ當テハ心ノ付ヌ物也、廏別當ノ推参ケ間敷コト成トモ彼ハ處ノ案内ヲ知タル故也、大藏カ謀ヲ用テ勝利ヲ得タルハ新敷義成トモ戰場ニテハ猶以其人ニ寄ス、道理ニ随ヒ宜ニ任スヘシ、輕キ者成迚侮リ大藏カ申コトヲ聞入スハ此城一時ニハ落去ス間敷也ト殊ニ褒美シ玉ヒケル、堂ノ内ヘ入テ鬨ノ聲ヲ上シモ水出カ謀也、多勢ニ響カセント謀リシ也