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岩櫃城攻略

真田氏の場合、江戸時代に幕府が編さんした寛永・寛政の系図など多くの系図が小県郡の名族海野うんの氏の直系ちょっけい、として書かれています。すなわち、「真田氏は、海野幸隆ゆきたかが真田に居住し、真田を名乗ったことにより始まる」としています。

しかし、応永7年(1400)9月の大塔合戦のようすを記録した『大塔物語』、(中略)『永享記』(中略)などの間接的資料からではありますが、真田氏の祖先はかなり早くから旧真田町真田地区(現在は上田市真田地区)を本拠地として、横尾よこお曲尾まがりお氏等と並び立っていた一地士じざむらいであった、とみる方が自然だと考えられるようになっています。

激戦をきわめた永禄4年(1561)9月の川中島合戦後も、信玄の北信侵攻は着々と進み、信濃一国の領国化は、ほぼ目的を遂げつつありました。

信玄の目は次の上野こうずけに向いていました。武田、上杉の抗争は、小田原北条氏をからめながら上野へ移っていくわけです。

吾妻郡内では、海野氏の流れをくむ同族である羽尾はねお氏と鎌原かんばら氏の間に領地をめぐっての抗争が発生、そこへ斉藤氏が羽尾氏に加担して参入してきましたので、いっそう問題がこじれてきました。

この時期、真田幸隆も、また北信の最前線から転じ、鳥居峠を越えた吾妻郡の地に送り込まれました。

岩下城跡(現吾妻郡吾妻町)

岩下城跡(現吾妻郡吾妻町)

岩櫃城跡(現吾妻郡吾妻町)山の裏側に城が築かれている

岩櫃城跡(現吾妻郡吾妻町)山の裏側に城が築かれている

吾妻郡に入る時期の幸隆の動向はよく分かりませんが、永禄6年(1563)五月付けの信玄書状(「鎌原系図」)の中で、「海野・祢津・真田の衆」が鎌原城在番を命じられていますので、この段階では小県郡の諸士と共に鎌原城に入って、斉藤氏の本拠岩下城(吾妻郡東吾妻町 旧吾妻町)の攻略にかかわっていたものと考えられます。岩下城が陥落した月日についても判明していませんが、1月早々には攻略していたものと思われます。

岩櫃城が攻略されたのも、ほぼ同時期かと思われます。

真田幸隆はその岩櫃城に在城し、城代的存在として吾妻郡内の攻略と防衛、対上杉の情報収集の任務を担っていたものと思われます。

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時代年表

年代 歴史 内容
1541 天文 10 上田地域 海野平の合戦パノラマVR
1542 11
1543 12
1544 13
1545 14
1546 15
1547 16
1548 17 上田地域 上田原の合戦パノラマVR
1549 18
1550 19 上田地域 砥石城攻略パノラマVR
1551 20
1552 21 武田信玄 関東を巡る対立
1553 22 武田信玄 川中島の戦い 第一回の戦い
上田地域 葛尾城落城
上田地域 塩田城自落
1554 23
1555 弘治 1 武田信玄 川中島の戦い 第二回の戦い
1556 2
1557 3 武田信玄 川中島の戦い 第三回の戦い
1558 永禄 1
1559 2
1560 3
1561 4 武田信玄 西上野への進出川中島の戦い 第四回の戦い
1562 5
1563 6 上田地域 岩櫃城攻略
1564 7 武田信玄 川中島の戦い 第五回の戦い
1565 8
1566 9 武田信玄 起請文提出
1567 10 武田信玄 起請文提出
1568 11
1569 12
1570 元亀 1
1571 2
1572 3
1573 天正 1 武田信玄 武田信玄逝く
参考資料:信濃史料、信玄武将の起請文、上田市誌「歴史編・文化財編」から引用しています。