上野では天文20年(1551)3月、関東管領上杉憲政が北条氏康の攻撃を受けて本拠地の平井城(藤岡市西平井)を攻め破られて以来、衰退の一途をたどり、
その前後から上杉と北条の対立は激しくなってきました。
これに目を付けた信玄はいちはやく北条氏に手を差し伸べ、天文23年(1554)12月に、娘を北条氏康の嫡子氏政に嫁がせ姻戚・同盟関係を結んでいます。したがって武田氏の上州侵攻は、「北条支援」の名目で始められました。一方の謙信は永禄2年(1559)二月京都へのぼり、半年以上滞在して将軍足利義輝から関東管領職になることを許されて、10月に帰国しています。
永禄3年(1560)関東の前の管領上杉憲政は、北条氏康に攻められたため、謙信に助けを求めてきました。謙信はそれに応じ翌4年(1561)、北条氏康・氏政親子を小田原城に包囲しましたが、結局攻略できないまま謙信は鎌倉に入り、鎌倉鶴岡八幡宮の神前で、憲政から上杉姓を譲り受け、上杉
年代 | 歴史 | 内容 | ||
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1541 | 天文 | 10 | 上田地域 | 海野平の合戦 |
1542 | 11 | |||
1543 | 12 | |||
1544 | 13 | |||
1545 | 14 | |||
1546 | 15 | |||
1547 | 16 | |||
1548 | 17 | 上田地域 | 上田原の合戦 | |
1549 | 18 | |||
1550 | 19 | 上田地域 | 砥石城攻略 | |
1551 | 20 | |||
1552 | 21 | 武田信玄 | 関東を巡る対立 | |
1553 | 22 | 武田信玄 | 川中島の戦い 第一回の戦い | |
上田地域 | 葛尾城落城 | |||
上田地域 | 塩田城自落 | |||
1554 | 23 | |||
1555 | 弘治 | 1 | 武田信玄 | 川中島の戦い 第二回の戦い |
1556 | 2 | |||
1557 | 3 | 武田信玄 | 川中島の戦い 第三回の戦い | |
1558 | 永禄 | 1 | ||
1559 | 2 | |||
1560 | 3 | |||
1561 | 4 | 武田信玄 | 西上野への進出、川中島の戦い 第四回の戦い | |
1562 | 5 | |||
1563 | 6 | 上田地域 | 岩櫃城攻略 | |
1564 | 7 | 武田信玄 | 川中島の戦い 第五回の戦い | |
1565 | 8 | |||
1566 | 9 | 武田信玄 | 起請文提出 | |
1567 | 10 | 武田信玄 | 起請文提出 | |
1568 | 11 | |||
1569 | 12 | |||
1570 | 元亀 | 1 | ||
1571 | 2 | |||
1572 | 3 | |||
1573 | 天正 | 1 | 武田信玄 | 武田信玄逝く |