ホーム > 古文書を巡る歴史 > 上杉謙信と武田信玄の5回に渡る川中島の戦い

上杉謙信と武田信玄の5回に渡る川中島の戦い

信玄と謙信の一騎打ち像

信玄と謙信の一騎打ち像

武田氏の村上氏攻略と北信濃侵攻は、越後の上杉謙信との有名な川中島の戦いに発展しました。天文22年(1553)から永禄7年まで、12年の間に5回も行われました。合戦の直接の原因は、村上義清が、信玄に追われて、本領を失い謙信に救いを求めたこと。また、奥信濃の高梨・井上氏らが不安を感じ、上杉謙信に助けを求めたことによります。信玄は、川中島地方の豊かな穀倉地帯を押さえることが目的でした。

第一回の戦い

天文21年9月1日、越後勢は八幡やわた(千曲市)にいた武田軍を追い、さらに武田配下にあった荒砥あらと城(千曲市 旧上山田町)、青柳あおやぎ城(筑北村 東筑摩軍旧坂北村)を破り、麻績おみ(東筑摩郡麻績村)、会田あいだ(松本市 東筑摩軍旧四賀村)虚空蔵城まで取り返しました。塩田城にいた武田軍もただちに兵をくりだし、13日の夜、麻績、荒砥城に放火させ、反撃を示しました。この時、室賀山城守信俊の手勢が敵の首七つを取ったと『高白斎記』は書き留めています。17日、越後勢が坂城南条付近まで進出、武田軍もこれを迎え撃ちましたが、20日謙信は急に兵を引き上げました。これは、謙信が弾正少弼だんじょうしょうひつに任ぜられ、じゅ五位に序せられたので朝廷や将軍にその答礼のため、京都へ上る期日が迫っていたからです。

前のページへもどるページの上へ次のページへすすむ

第二回の戦い

天文24年7月(1555)(この年10月23日に弘治と改元)、信玄は総力をあげて川中島に乗り出しました。4月、犀川南岸の大塚(更級郡)に本陣をすえ、さらに武田方の善光寺堂主の栗田寛明が拠る朝日山城に、兵三千、弓八百はり、鉄炮三百ちょうを送り、上杉軍をけん制しました。

7月、謙信は善光寺脇の横山城(長野市城山公園)に陣を取り、旭山城をはげしくせめましたが、落とすことはできませんでした。長期間の滞在で両軍は疲れ、今川義元が中に入り講和が成立します。武田がたが旭山城を破壊してもとの状態に戻し、犀川から北は謙信、南は信玄という条件で合意したものと推定されます。しかし、これで村上氏が故郷へ帰ることは絶望となりました。

この戦いで、信玄は戦功のあった浦野新右衛門貞次に、「いよいよ忠信をぬきんずるように」と感状を与えています。

弘治2年(1556)信玄は前年の謙信との講和を破って、犀川を渡って北への進出をはかり、更級郡の香坂筑前守こうさかちくぜんのかみ、高井郡の井上左衛門尉、市川信房を味方に引き入れ、着々と北信侵攻の準備をすすめました。

前のページへもどるページの上へ次のページへすすむ

第三回の戦い

弘治3年(1557)二月、雪の降る時期で身動きのできない越後軍の不利をついて、武田軍は善光寺の西北にある葛山城を攻め、城将小田切駿河守おたぎりするがのかみ以下を討ち取り落城させたので信玄は、室賀兵部大輔に感状を与えています。小田切駿河守おだぎりするがのかみを討ち取ったのは室賀兵部大輔の配下の清兵衛でした。

続いて、信玄は北に進み、長沼城(長野市)・大倉城(長野市)を攻め、さらに戦線を伸ばして飯山城に迫りました。謙信は葛山城落城の知らせを聞き、家臣にあてた手紙に「信州の味方が滅びればこの国も危なくなる」(『信濃史料』十二−一三六)と書いています。越後勢は雪の消えるのを待って、善光寺平に入り4月25日に旭山城を再建し、信玄の来襲に備えました。

謙信の今度の戦いにかける決意は固いものがありました。謙信は同年5月10日、小菅神社(飯山市瑞穂)に戦勝のため願文をささげ、12日には当時、武田軍が建築を始めていた埴科郡香坂城(後の海津城)を攻め、坂城の岩鼻(南条)まで迫りますが、信玄が兵を引き上げたため戦うことはできませんでした。この年の7月、北安曇郡の小谷おたりで甲越両軍が激しく戦い、さらに8月に入って上野原(長野市若槻)で激しい合戦をしました。

永禄元年(1558)将軍足利義輝は、甲越の戦いに和談を勧め、信玄と謙信に内書を送りました。二人もこれを承諾し兵を引き上げました。

この間、信玄は将軍義輝から信濃国守護に任ぜられ、永禄2年(1559)二月、出家して信玄(出家する前は晴信)と改めました。一方謙信は、永禄2年(1559)2月京都へ上り、約半年間滞在して、将軍足利義輝から関東管領職に任じられ、同年10月に帰国しました。

謙信の上洛中、信玄は、9月1日には、生島足島神社に越後勢と戦い、勝利するよう神の加護を賜りたいと、願文を奉納しています。

前のページへもどるページの上へ次のページへすすむ

第四回の戦い

永禄4年(1561)4月、信玄の兵が碓氷峠から国境を越えて上野の松井田や長野原に侵入してきたため、8月末、その裏をねらって謙信は春日山城を出て北信濃に入り、村上・井上・高梨・須田・島津などの信濃衆を先陣とし川中島に出陣しました。

謙信出陣の報に接した信玄も、多くの将士を従えて川中島に向かいました。謙信は、千曲川を越えて海津城を眼下に見下ろす妻女山に本陣をすえました。信玄はこの報を聞き、一手を妻女山の攻撃に向かわせ、信玄と他の一手は謙信とは逆に千曲川を渡り、篠ノ井のあいに陣を取りました。このとき、川中島の戦いで最も烈しい戦闘が行われました。

一般に川中島の戦いというとこの戦いをさし、頼山陽らいさんようの「鞭聲粛々」の詩を生み出した戦国時代の代表的な合戦として有名です。

この戦いで、謙信とその旗本が信玄の本陣に襲いかかり、謙信が信玄に太刀をあびせ、信玄も太刀を抜いて防いだと伝えられていますが、真偽の程はわかりません。

この戦いには、真田幸隆、信綱親子も加わっています。この方面の地理に明るい真田氏を始め、小県の海野・祢津・室賀・浦野・小泉の諸士は、武田軍の最前線で命がけの働きをしていたことは確かです。

前のページへもどるページの上へ次のページへすすむ

第五回の戦い

永禄7年(1564)3月18日、信玄は信越国境に兵を出して、野尻城(信濃町)を落としました。しかし、謙信も5月には取り返し善光寺に陣を進め信玄を牽制し、さらに8月1日更科八幡宮に願文を捧げ勝利を祈りました。

謙信が上州(群馬県)東南端の小泉城主富岡重朝とみおかしげともに送った手紙(『信濃史料』十二−五三〇)に、「七月二十九日、川中島に兵を進めた。近日中には佐久郡へ押し通るつもりでいる。その後ただちに碓氷峠口に向かう」とあるように、この際一挙に勝負をつけようと、盛んに信玄に挑戦しますが、信玄は塩崎まで出陣したものの、ついに合戦は行われなかったため、60日に近いにらみ合いの末、謙信は10月1日越後春日山に帰らざるを得ませんでした。

後世、5回にわたる川中島の戦いの結果は、甲州の勝ちか、越後の勝ちか、あるいは互角かと、話題になりますが、川中島で食い止めることができず、信玄に北上を許したということは謙信の劣勢を認めざるを得ません。謙信は、飯山城を核に高井郡、水内郡の一部を確保したにとどまり、信玄は北信濃のほぼ全域を手中に納めました。

前のページへもどるページの上へ次のページへすすむ

時代年表

年代 歴史 内容
1541 天文 10 上田地域 海野平の合戦パノラマVR
1542 11
1543 12
1544 13
1545 14
1546 15
1547 16
1548 17 上田地域 上田原の合戦パノラマVR
1549 18
1550 19 上田地域 砥石城攻略パノラマVR
1551 20
1552 21 武田信玄 関東を巡る対立
1553 22 武田信玄 川中島の戦い 第一回の戦い
上田地域 葛尾城落城
上田地域 塩田城自落
1554 23
1555 弘治 1 武田信玄 川中島の戦い 第二回の戦い
1556 2
1557 3 武田信玄 川中島の戦い 第三回の戦い
1558 永禄 1
1559 2
1560 3
1561 4 武田信玄 西上野への進出川中島の戦い 第四回の戦い
1562 5
1563 6 上田地域 岩櫃城攻略
1564 7 武田信玄 川中島の戦い 第五回の戦い
1565 8
1566 9 武田信玄 起請文提出
1567 10 武田信玄 起請文提出
1568 11
1569 12
1570 元亀 1
1571 2
1572 3
1573 天正 1 武田信玄 武田信玄逝く
参考資料:信濃史料、信玄武将の起請文、上田市誌「歴史編・文化財編」から引用しています。