親の信虎を駿河に追った翌年の天文11年(1542)、信玄は信濃制圧を開始します。まず、矛先は、諏訪に向けられました。
諏訪は、武川筋(釜無川上流部の谷)から信濃の入り口にあたります。信濃攻略のための重要な地点であり、信玄がここを押さえるねらいであったことはいうまでもありません。当時、諏訪氏の分家であった伊那高遠の諏訪
その後、諏訪は40年間、武田の直轄領となり、上原城に諏訪郡代として板垣信方をおきました。
信玄は天文13年(1544)から14年にかけては上伊那地方に兵を進め、15年から16年にかけて矛先は主として佐久方面に向けられます。
諏訪、伊那、佐久地方をほぼ従えた信玄は、いよいよ村上氏への攻撃を企てます。北信地方への関門といえる坂城に村上義清がいました。信濃全土の攻略に意欲を燃やす信玄にとって、義清を破ることはぜひとも必要な段階でした。
天文17年2月朔日、武田軍は雪が深く積もり、雨やみぞれの降る中を大門峠から丸子に出、砂原峠(小県郡旧丸子町と上田市東塩田地区の境)を越えて
上田原遠望
板垣信方の墓
上田原合戦の戦場といわれているところは、国道143号線沿いの上田原の台地から、一段下の中之条・下之条にかけての一帯ですが、両軍が激突し、勝敗を決した主戦場は、下之条集落やその北側の千曲川寄りの畑地にある若宮八幡宮付近から合流した浦野川の西の小字塩田川原と呼ばれるあたりと考えられます。
この戦いで武田軍は、信玄の右腕ともいうべき諏訪郡代の板垣信方が戦死し、大将信玄も傷を負いました。
敗因を解き明かすすべはありませんが、最大の激戦地塩田川原近辺は、村上方の本陣天白山の目の前です。武田軍がもう一押しで勝利は我がものとかさにかかって、本陣近くまで追いつめたところを、地元の利を生かした村上軍の思いもよらぬ逆襲に会ったのが敗因ではなかったかという推測も生まれます。
武田の当主になって、初めての敗戦がよほどくやしかったのでしょう。信玄は陣を引こうとしませんでした。甲府で注進を受けた駒井政武(高白斎)たちは、御北様(信玄の生母大井夫人)と相談して使者をおくり、帰陣するように信玄を説得し、ようやく上原城に馬をおさめました(『高白斎記』)。
武田信玄と真田幸隆にとって、村上義清は、信濃侵攻・本領復帰等それぞれの目的を果たすためには、どうしても倒さねばならない共通の敵となったわけです。
年代 | 歴史 | 内容 | ||
---|---|---|---|---|
1541 | 天文 | 10 | 上田地域 | 海野平の合戦 |
1542 | 11 | |||
1543 | 12 | |||
1544 | 13 | |||
1545 | 14 | |||
1546 | 15 | |||
1547 | 16 | |||
1548 | 17 | 上田地域 | 上田原の合戦 | |
1549 | 18 | |||
1550 | 19 | 上田地域 | 砥石城攻略 | |
1551 | 20 | |||
1552 | 21 | 武田信玄 | 関東を巡る対立 | |
1553 | 22 | 武田信玄 | 川中島の戦い 第一回の戦い | |
上田地域 | 葛尾城落城 | |||
上田地域 | 塩田城自落 | |||
1554 | 23 | |||
1555 | 弘治 | 1 | 武田信玄 | 川中島の戦い 第二回の戦い |
1556 | 2 | |||
1557 | 3 | 武田信玄 | 川中島の戦い 第三回の戦い | |
1558 | 永禄 | 1 | ||
1559 | 2 | |||
1560 | 3 | |||
1561 | 4 | 武田信玄 | 西上野への進出、川中島の戦い 第四回の戦い | |
1562 | 5 | |||
1563 | 6 | 上田地域 | 岩櫃城攻略 | |
1564 | 7 | 武田信玄 | 川中島の戦い 第五回の戦い | |
1565 | 8 | |||
1566 | 9 | 武田信玄 | 起請文提出 | |
1567 | 10 | 武田信玄 | 起請文提出 | |
1568 | 11 | |||
1569 | 12 | |||
1570 | 元亀 | 1 | ||
1571 | 2 | |||
1572 | 3 | |||
1573 | 天正 | 1 | 武田信玄 | 武田信玄逝く |
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