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上田原の合戦

親の信虎を駿河に追った翌年の天文11年(1542)、信玄は信濃制圧を開始します。まず、矛先は、諏訪に向けられました。

諏訪は、武川筋(釜無川上流部の谷)から信濃の入り口にあたります。信濃攻略のための重要な地点であり、信玄がここを押さえるねらいであったことはいうまでもありません。当時、諏訪氏の分家であった伊那高遠の諏訪頼継よりつぐが諏訪の総領職そうりょうしょくをねらっていることに目をつけた信玄は、7月頼継を誘って義弟にあたる頼重を桑原城に攻め、生け捕りにして甲府へ送り切腹させてしまいます。この後、諏訪の地は宮川を境にして信玄と頼継で二分されます。頼継はこの二ヵ月後、宮川より東の武田氏分まで兵を進め、諏訪全体を手に入れます。信玄は約束を破ったことを怒って直ちに頼重の遺児虎王を擁して頼継を攻め、諏訪から追い出してしまいました。

その後、諏訪は40年間、武田の直轄領となり、上原城に諏訪郡代として板垣信方をおきました。

信玄は天文13年(1544)から14年にかけては上伊那地方に兵を進め、15年から16年にかけて矛先は主として佐久方面に向けられます。

諏訪、伊那、佐久地方をほぼ従えた信玄は、いよいよ村上氏への攻撃を企てます。北信地方への関門といえる坂城に村上義清がいました。信濃全土の攻略に意欲を燃やす信玄にとって、義清を破ることはぜひとも必要な段階でした。

天文17年2月朔日、武田軍は雪が深く積もり、雨やみぞれの降る中を大門峠から丸子に出、砂原峠(小県郡旧丸子町と上田市東塩田地区の境)を越えて神畑かばたけ付近まで兵を進めました。

上田原遠望

上田原遠望

板垣信方の墓

板垣信方の墓

上田原合戦の戦場といわれているところは、国道143号線沿いの上田原の台地から、一段下の中之条・下之条にかけての一帯ですが、両軍が激突し、勝敗を決した主戦場は、下之条集落やその北側の千曲川寄りの畑地にある若宮八幡宮付近から合流した浦野川の西の小字塩田川原と呼ばれるあたりと考えられます。

この戦いで武田軍は、信玄の右腕ともいうべき諏訪郡代の板垣信方が戦死し、大将信玄も傷を負いました。

敗因を解き明かすすべはありませんが、最大の激戦地塩田川原近辺は、村上方の本陣天白山の目の前です。武田軍がもう一押しで勝利は我がものとかさにかかって、本陣近くまで追いつめたところを、地元の利を生かした村上軍の思いもよらぬ逆襲に会ったのが敗因ではなかったかという推測も生まれます。

武田の当主になって、初めての敗戦がよほどくやしかったのでしょう。信玄は陣を引こうとしませんでした。甲府で注進を受けた駒井政武(高白斎)たちは、御北様(信玄の生母大井夫人)と相談して使者をおくり、帰陣するように信玄を説得し、ようやく上原城に馬をおさめました(『高白斎記』)。

武田信玄と真田幸隆にとって、村上義清は、信濃侵攻・本領復帰等それぞれの目的を果たすためには、どうしても倒さねばならない共通の敵となったわけです。

QuikTimVR千曲公園から見た上田原古戦場パノラマVR

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時代年表

年代 歴史 内容
1541 天文 10 上田地域 海野平の合戦パノラマVR
1542 11
1543 12
1544 13
1545 14
1546 15
1547 16
1548 17 上田地域 上田原の合戦パノラマVR
1549 18
1550 19 上田地域 砥石城攻略パノラマVR
1551 20
1552 21 武田信玄 関東を巡る対立
1553 22 武田信玄 川中島の戦い 第一回の戦い
上田地域 葛尾城落城
上田地域 塩田城自落
1554 23
1555 弘治 1 武田信玄 川中島の戦い 第二回の戦い
1556 2
1557 3 武田信玄 川中島の戦い 第三回の戦い
1558 永禄 1
1559 2
1560 3
1561 4 武田信玄 西上野への進出川中島の戦い 第四回の戦い
1562 5
1563 6 上田地域 岩櫃城攻略
1564 7 武田信玄 川中島の戦い 第五回の戦い
1565 8
1566 9 武田信玄 起請文提出
1567 10 武田信玄 起請文提出
1568 11
1569 12
1570 元亀 1
1571 2
1572 3
1573 天正 1 武田信玄 武田信玄逝く

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参考資料:信濃史料、信玄武将の起請文、上田市誌「歴史編・文化財編」から引用しています。