ホーム > 古文書を巡る歴史 > 葛尾城落城

葛尾城落城

葛尾城跡(中央の峰部分)

葛尾城跡(中央の峰部分)

村上氏は砥石城という小県地方のひとつの戦略拠点を失いましたが、その勢力は衰えたとはいえません。塩田城と本拠地葛尾城(坂城町)は健在でした。信玄は葛尾城を落として、北信濃に一歩を踏み込む心づもりでしたが、上田原の戦い、砥石城攻めで村上氏に遅れをとったこともあり、初めからの正面攻撃を避け、周りをまず押さえ、村上氏の背後を攻めるという作戦をたてました。

天文22年(1553)信玄は攻略計画を進めますが、それはあくまでも水面下のことでした。1月28日に書かれた信玄の書状があります。「これから兵を出すが、世間には砥石城再興のための出馬と触れること。必ず砥石の城普請のために信玄と義信(信玄の長男)が出向いたとしておくこと」。これは、佐久の内山城を守る小山田備中守にあてたものですが、村上氏や北信濃の諸将をあざむくために出されたものです。そして実際は松本盆地から苅谷原・会田・麻績・更級の盆地に出たのです。

3月中旬甲府を出て、深志(松本市)・苅谷原方面に出陣した武田軍は、4月3日会田・虚空蔵山を焼き払い、6日には12の隊に分かれて麻績を経て更級方面に進んできました。攻撃を恐れた塩崎氏も屋代氏も急ぎ武田軍に従いました。こうなると、村上氏の周りは、武田方に取り囲まれ退路もありません。4月9日村上氏が守っていた葛尾城にはだれもいなくなり、村上義清は北信濃へ逃れました。

4月15日から18日にかけて村上氏の幕下にあった小県の室賀氏、更級の大須賀九兵衛は武田方に出仕しました。

4月23日、村上義清は北信勢とともに葛尾の奪い返しをはかり、同城を守っていた武田方を攻めて於曾おそ源八郎らを討ち死にさせました。しかし、葛尾城の命運は尽きてしまい、元の姿に戻すことはできませんでした。村上義清は須坂の高梨政頼の元へ走り、自分の城へ帰れることを願って、6月政頼と共に越後の上杉謙信のもとに助けを求めました。

これにより上杉氏の信濃侵攻の理由もでき、有名な川中島合戦の基ができたわけです。

前のページへもどるページの上へ次のページへすすむ

時代年表

年代 歴史 内容
1541 天文 10 上田地域 海野平の合戦パノラマVR
1542 11
1543 12
1544 13
1545 14
1546 15
1547 16
1548 17 上田地域 上田原の合戦パノラマVR
1549 18
1550 19 上田地域 砥石城攻略パノラマVR
1551 20
1552 21 武田信玄 関東を巡る対立
1553 22 武田信玄 川中島の戦い 第一回の戦い
上田地域 葛尾城落城
上田地域 塩田城自落
1554 23
1555 弘治 1 武田信玄 川中島の戦い 第二回の戦い
1556 2
1557 3 武田信玄 川中島の戦い 第三回の戦い
1558 永禄 1
1559 2
1560 3
1561 4 武田信玄 西上野への進出川中島の戦い 第四回の戦い
1562 5
1563 6 上田地域 岩櫃城攻略
1564 7 武田信玄 川中島の戦い 第五回の戦い
1565 8
1566 9 武田信玄 起請文提出
1567 10 武田信玄 起請文提出
1568 11
1569 12
1570 元亀 1
1571 2
1572 3
1573 天正 1 武田信玄 武田信玄逝く
参考資料:信濃史料、信玄武将の起請文、上田市誌「歴史編・文化財編」から引用しています。