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武田信玄の天下人への戦略とその後

永禄11年(1568)年2月、武田氏は徳川氏と同盟を結び、駿河・遠江を東と西から攻め取る約束を交わしました。

永禄12年(1569)から天正元年(1573)年にかけての丸4年間、信玄の精力的な駿河・遠江・三河方面への侵攻が続けられました。執拗しつようともいえる攻勢に音を上げた今川・北条氏は、越後の上杉謙信に信濃に兵を出し、信玄の動きを牽制けんせいするようという要請を何回もしました。特に北条氏は武田氏の駿河侵攻を鈍らせるため何度も何度も要請の手をつくしました。中には岩櫃城の真田幸隆を討ち取ってくれと書いた書状(『信濃史料』一三−二七六)もあります。しかし、謙信にしてもその度ごと頼みに応じられるような情勢ではありませんでした。

元亀元年(1570)10月、徳川家康は信玄との同盟関係を破り、謙信と同盟関係を結ぶようになります。信玄にしてみればこれによって遠江も公然と攻撃できる名分ができました。

元亀3年(1572)10月、信玄は四男勝頼とともに甲府を立ち、甲州・信州の大軍を率いて伊那谷を一気に下り遠江に侵入しました。

12月22日、遠江三方ヶ原みかたがはらで徳川・織田両軍と戦い大勝します。

この戦いは圧倒的な数を誇る武田軍が優勢で、家康は命からがら浜松城に逃げ帰る、という大敗を喫しています。

その後、武田軍は浜松まで追撃しましたが、深追いすることなく三方ヶ原に近い刑部おさかべで越年しています。

翌天正元年(1573)2月、信玄は刑部の北西にある野田城を攻略しましたが、このころから病状が悪化、長篠ながしのを経て鳳来寺に移り、しばらく療養に専念しています。しかし、一向に回復に向かわなかったのでしょう。3月9日、鳳来寺を出立しゅったつ、帰国の途につきましたが、4月12日信州駒場こまば(下伊那郡阿智村・こまんばともいう)で死去しました。

馬にも乗れない状態で輿こしに乗せられての帰郷だったようです。

前年10月に甲府を出立する時点から病状はかなり進行しており、この出陣は覚悟のものだったに違いありません。戦国大名の典型ともいわれている希代の英傑えいけつもその夢半ばで先陣の露と消えたわけです。くしくもこれより三ヶ月前の1月、かつての宿敵村上義清も、越後の根知城で寂しく死去しています。

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時代年表

年代 歴史 内容
1541 天文 10 上田地域 海野平の合戦パノラマVR
1542 11
1543 12
1544 13
1545 14
1546 15
1547 16
1548 17 上田地域 上田原の合戦パノラマVR
1549 18
1550 19 上田地域 砥石城攻略パノラマVR
1551 20
1552 21 武田信玄 関東を巡る対立
1553 22 武田信玄 川中島の戦い 第一回の戦い
上田地域 葛尾城落城
上田地域 塩田城自落
1554 23
1555 弘治 1 武田信玄 川中島の戦い 第二回の戦い
1556 2
1557 3 武田信玄 川中島の戦い 第三回の戦い
1558 永禄 1
1559 2
1560 3
1561 4 武田信玄 西上野への進出川中島の戦い 第四回の戦い
1562 5
1563 6 上田地域 岩櫃城攻略
1564 7 武田信玄 川中島の戦い 第五回の戦い
1565 8
1566 9 武田信玄 起請文提出
1567 10 武田信玄 起請文提出
1568 11
1569 12
1570 元亀 1
1571 2
1572 3
1573 天正 1 武田信玄 武田信玄逝く
参考資料:信濃史料、信玄武将の起請文、上田市誌「歴史編・文化財編」から引用しています。