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家臣団の団結強化のために起請文の提出へ

信玄は、先に親の信虎を駿河に追放し、さらに、飯富虎昌ら重臣に詰め腹を切らせた上に子の義信を幽閉、自害させたことで他の家臣の心が離れていくことにつながるのを恐れました。

そうした情勢の中で駿河・遠江方面へ進出して、もし留守中に信濃、西上野在陣の武士たちが反旗をひるがえすようなことでもあれば、取り返しがききません。この動きを警戒し、封じようとしたのが、永禄9年・10年(特に10)神前で起請させるという措置でした。

これが下之郷の生島足島神社に現在残っている83通(今は残されていないが他にも8通あったといわれる)、237人にも及ぶ、甲斐・信濃・西上野の将士から署名・血判けっぱん」の上、起請文を書かせて誓約させるという事態になったのです。

83通の起請文は、永禄9年(1566)8月23日と翌10年8月7日・8日に納められていますがその内のほとんどが永禄10年に納められたものです。

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時代年表

年代 歴史 内容
1541 天文 10 上田地域 海野平の合戦パノラマVR
1542 11
1543 12
1544 13
1545 14
1546 15
1547 16
1548 17 上田地域 上田原の合戦パノラマVR
1549 18
1550 19 上田地域 砥石城攻略パノラマVR
1551 20
1552 21 武田信玄 関東を巡る対立
1553 22 武田信玄 川中島の戦い 第一回の戦い
上田地域 葛尾城落城
上田地域 塩田城自落
1554 23
1555 弘治 1 武田信玄 川中島の戦い 第二回の戦い
1556 2
1557 3 武田信玄 川中島の戦い 第三回の戦い
1558 永禄 1
1559 2
1560 3
1561 4 武田信玄 西上野への進出川中島の戦い 第四回の戦い
1562 5
1563 6 上田地域 岩櫃城攻略
1564 7 武田信玄 川中島の戦い 第五回の戦い
1565 8
1566 9 武田信玄 起請文提出
1567 10 武田信玄 起請文提出
1568 11
1569 12
1570 元亀 1
1571 2
1572 3
1573 天正 1 武田信玄 武田信玄逝く
参考資料:信濃史料、信玄武将の起請文、上田市誌「歴史編・文化財編」から引用しています。