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塩田城自落

葛尾城の自落を知った信玄は、5月11日に一旦、甲府へ帰陣しています。そして、休む間もなく、6月21日には、次の目的地を、村上の残党福沢昌景まさかげなどが守る小県郡の塩田城に定めています。

塩田城跡遠望

塩田城跡遠望

塩田城は独鋸とっこ山を背にした弘法山の北斜面に築かれ、広大な山腹一帯に多数の郭を備えた文字とおりの要害です。しかし周辺の諸将は度重なる武田方の攻撃で追い払われたり、武田方に出仕したりで、頼るべき武将もみあたらない状況でした。

7月25日、信玄は甲府を出発―若神子わかみこ(山梨県)―佐久海ノ口(南佐久郡南牧村)―28日内山城―30日望月城と進軍し、8月1日には長窪城で陣を整えた後、和田城(小県郡長和町 旧和田村)を落として城主以下を討ち取り、4日には高鳥屋たかとや(上田市武石地区と丸子地区の境)を攻撃して、これも全員討ち死にさせ、続いて内村の城(上田市丸子地区内村)も落城させ、塩田城の後背部を攻略してしまいました。このため塩田城は、すっかり戦意を失って5日に自落しています。

自落という言葉は、信玄の城攻め作戦の中によく出てきます。戦いの前にひそかにデマを広め、また忍びのものが入りこんで、戦闘用具などを使用不能にしておくこともあったといいます。城兵の戦意をなくすことを目的とし、戦闘の前に城を逃げ出したり、戦わずして降参という場合が自落です。それだけ、武田軍の強さが恐れられていたことを物語るものでありましょうし、塩田城の場合は、先の和田城、高鳥屋城の籠城ろうじょう衆が皆、討ち殺されたことが城兵たちに恐怖感を与えたのかも知れません。これで小県郡内から武田信玄に敵対する勢力はすべて撃退され、室賀・小泉氏等も武田配下となり、所領を安堵されました。

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時代年表

年代 歴史 内容
1541 天文 10 上田地域 海野平の合戦パノラマVR
1542 11
1543 12
1544 13
1545 14
1546 15
1547 16
1548 17 上田地域 上田原の合戦パノラマVR
1549 18
1550 19 上田地域 砥石城攻略パノラマVR
1551 20
1552 21 武田信玄 関東を巡る対立
1553 22 武田信玄 川中島の戦い 第一回の戦い
上田地域 葛尾城落城
上田地域 塩田城自落
1554 23
1555 弘治 1 武田信玄 川中島の戦い 第二回の戦い
1556 2
1557 3 武田信玄 川中島の戦い 第三回の戦い
1558 永禄 1
1559 2
1560 3
1561 4 武田信玄 西上野への進出川中島の戦い 第四回の戦い
1562 5
1563 6 上田地域 岩櫃城攻略
1564 7 武田信玄 川中島の戦い 第五回の戦い
1565 8
1566 9 武田信玄 起請文提出
1567 10 武田信玄 起請文提出
1568 11
1569 12
1570 元亀 1
1571 2
1572 3
1573 天正 1 武田信玄 武田信玄逝く
参考資料:信濃史料、信玄武将の起請文、上田市誌「歴史編・文化財編」から引用しています。