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西上野への進出

激戦をきわめた永禄4年9月の川中島合戦の後も、信玄の北信濃進攻は続きますが、以後、上野への進出に主力が注がれていきます。以前から越後の上杉氏が関東方面へ出兵し、関東の武蔵国(埼玉県)北部から上野国にかけて関東管領のかつての勢力を引き継いで維持してきました。信玄の上野への進出は、関東と越後の間を断ち切り謙信を越後に封じ込めるためでした。

永禄6年(1563)武田軍は真田幸隆勢を主力として、岩櫃城(吾妻郡東吾妻町 旧吾妻町)を攻撃しました。岩櫃城には、先の関東管領上杉憲政の家臣斉藤越前守がいて、武田軍の攻撃を知り、上杉謙信に助けを求めたので武田対上杉の戦いに発展しました。

岩櫃城は守りの堅い要害である上に、上杉の援軍も入っていたので攻め落とすことはできませんでした。正攻法で攻略することは難しいと知った幸隆は、いったん停戦を約束し、内部の切り崩し工作にかかりました。これが見事に功を奏し、さしもの岩櫃城も陥落し、武田の手中に落ちました。

嵩山城跡遠望

嵩山城跡遠望

箕輪城跡(現群馬郡箕郷町)

箕輪城跡(現群馬郡箕郷町)

白井城跡(現北群馬郡子持村)

白井城跡(現北群馬郡子持村)

信玄はさらに、上野進攻計画の拡大を続けました。岩櫃城の北東約4kmにある支城嵩山たかやま城も幸隆の奇略により落城させてしまいました。岩櫃城とともに嵩山城の攻略は、上杉の勢力を吾妻から引き上げさせることになり、上野進攻作戦は有利になりました。

吾妻郡での戦果に勢いを得た武田軍は永禄9年(1566)9月には、かねてからねらいを定めていた西上野最大の城である箕輪みのわ城を攻略しました。この箕輪城は、西上野に最大の勢力を誇っていた長野業政なりまさの本拠地で真田幸隆にとっては最大の恩人の城でもありました。

この余勢をかって攻勢に転じた武田軍は翌永禄10年(1567)3月、これもかねてからの攻略目標になっていた白井しろい城(渋川市 北群馬郡旧子持村)を攻撃しました。この白井城を真田幸隆ら武田軍は、かなりの短期間で攻略したようです。

真田父子が吾妻軍を始め西上野の対上杉の最前線にあって、信玄の全幅の信頼を得ながら、上杉方の情報収集・報告や攻略地の論功行賞等、現地指揮者としての重要な役割を果たしていたことが分かります。これにより上杉氏と鋭く対立しながらも、西上野はほぼ、武田の掌中に入りました。

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時代年表

年代 歴史 内容
1541 天文 10 上田地域 海野平の合戦パノラマVR
1542 11
1543 12
1544 13
1545 14
1546 15
1547 16
1548 17 上田地域 上田原の合戦パノラマVR
1549 18
1550 19 上田地域 砥石城攻略パノラマVR
1551 20
1552 21 武田信玄 関東を巡る対立
1553 22 武田信玄 川中島の戦い 第一回の戦い
上田地域 葛尾城落城
上田地域 塩田城自落
1554 23
1555 弘治 1 武田信玄 川中島の戦い 第二回の戦い
1556 2
1557 3 武田信玄 川中島の戦い 第三回の戦い
1558 永禄 1
1559 2
1560 3
1561 4 武田信玄 西上野への進出川中島の戦い 第四回の戦い
1562 5
1563 6 上田地域 岩櫃城攻略
1564 7 武田信玄 川中島の戦い 第五回の戦い
1565 8
1566 9 武田信玄 起請文提出
1567 10 武田信玄 起請文提出
1568 11
1569 12
1570 元亀 1
1571 2
1572 3
1573 天正 1 武田信玄 武田信玄逝く
参考資料:信濃史料、信玄武将の起請文、上田市誌「歴史編・文化財編」から引用しています。