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武田氏と上田地域

信濃の隣国甲斐(山梨県)の武田氏は、甲斐源氏として平安末期から根を下ろしている一族です。

なぜ信濃に矛先が向けられたのでしょうか。

当時の信濃には、関東の上杉氏、相模の北条氏、駿河の今川氏のような武田氏にとって手に余る強敵がいないとみたことがあげられます。諏訪・佐久・上田・松本・伊那・長野などの盆地や谷平野には多くの国人たちがいましたが、信濃国全土を勢力下におくような力をもった領主はいませんでした。甲斐の国は、東西約80km、南北92kmの国です。中央盆地の肥沃な耕地は広いとはいえず、山間から流れる川は、釜無川・笛吹川となって甲府盆地を流れ下ります。この二つの川のはん濫によって生活や生産が大きく影響されてきました。このような甲斐の人たちから見れば、信濃国は穀倉地帯として、魅力あるものにみえたにちがいありません。

武田氏の来攻以前と以後の上田市域の領主層が、どのように変化したか分かる範囲で記しておきましょう。

[浦野氏]浦野氏は現浦里小学校の校舎のある部分に館を持ち、背後の飯綱山いいづなやまの中腹に山城を築いて、浦野の地を本拠として勢力を拡張し、越戸こうどを含め現在の青木村のほとんどを領有していました。

天文10年(1541)から村上氏に従い、天文22年(1553)以後は、武田信玄に従い、わずかの所領が他の者に宛行われただけで、浦野と、村松・夫神・中狭・田沢(小県郡青木村)などその大部分は浦野氏一族が領有していました。

[室賀氏]室賀貞信のあと、ほぼ百年の間は史料が絶えて、次は天文22年(1553)の4月武田信玄が葛尾城を攻略したとき、「十八日甲午日没して室賀出仕」とある『高白斎記』の記録です。したがって当然のことながら、室賀の谷には武田氏来攻の以前から室賀氏がいたことは確かなことですが、このときの領主の名もまた判明しません。

室賀氏の名がそろった史料は生島足島神社起請文で、室賀氏の総領が室賀山城守信俊で、その支配下に室賀治部じぶ少輔経秀・同常陸守正吉、同甚七郎吉久がいます。

室賀氏は、上田市上室賀に原畑はらはた城と呼ばれる館と、その背後に笹洞ささぼら城を持っていました。

[小泉氏]大日堂のある高仙寺のすぐ下の台地に館をおき、背後の城山じょうやまと呼ばれる山の頂には上ノ城、中腹には下ノ城を構えていました。館を中心とした小泉郷一帯を支配していたものと推定されます。なお上田築城前、この地に小泉曲輪こいずみくるわがあったこと、塩尻五郎左衛門は小泉氏であったとする伝承などから千曲川の北岸にまで所領を広げていたものと考えられます。

小泉氏は、天文22年8月、信玄から室賀氏と同じように、小泉の領地は安堵されますが城は破却されています。

この城はおそらく現在、市民体育館の場所にある小泉曲輪くるわでしょう。

武田氏に出仕した時期は、室賀氏と時を同じくしていたと思われます。

[矢沢氏]矢沢氏は天文10年(1541)海野平の合戦のとき、海野氏とともに破れ、その35年間の消息はまったく分かりません。天文19年(1550)の『守矢頼真書留』に、「矢沢・保科・西条・東条・春日 これは村上殿相押えられ候」とあり、矢沢氏は保科・西条・東条(ともに長野市千曲川東岸)と同様に村上氏に領有され、矢沢郷から追われたことを示しています。

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時代年表

年代 歴史 内容
1541 天文 10 上田地域 海野平の合戦パノラマVR
1542 11
1543 12
1544 13
1545 14
1546 15
1547 16
1548 17 上田地域 上田原の合戦パノラマVR
1549 18
1550 19 上田地域 砥石城攻略パノラマVR
1551 20
1552 21 武田信玄 関東を巡る対立
1553 22 武田信玄 川中島の戦い 第一回の戦い
上田地域 葛尾城落城
上田地域 塩田城自落
1554 23
1555 弘治 1 武田信玄 川中島の戦い 第二回の戦い
1556 2
1557 3 武田信玄 川中島の戦い 第三回の戦い
1558 永禄 1
1559 2
1560 3
1561 4 武田信玄 西上野への進出川中島の戦い 第四回の戦い
1562 5
1563 6 上田地域 岩櫃城攻略
1564 7 武田信玄 川中島の戦い 第五回の戦い
1565 8
1566 9 武田信玄 起請文提出
1567 10 武田信玄 起請文提出
1568 11
1569 12
1570 元亀 1
1571 2
1572 3
1573 天正 1 武田信玄 武田信玄逝く
参考資料:信濃史料、信玄武将の起請文、上田市誌「歴史編・文化財編」から引用しています。