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信玄と長男義信の反目

このような状況の中で、信玄の目は南の隣国駿河するが(静岡県の一部)・相模さがみ(神奈川県)等に向けられていきました。その契機となったのは永禄3年(1560)5月19日、上洛じょうらくを敢行した今川義元が織田信長のために桶狭間おけはざまで討ち死にしたことです。その後、今川家は氏真うじざねが跡を継いでいましたが、その勢力は目に見えて衰えていきました。下克上げこくじょう・弱肉強食は戦国期の常、弱体化した今川の領国を狙わないものはありません。

信玄も、今川領を狙うひとりでした。ただ武田氏と今川氏の間には、信玄の姉が義元に、義元の娘が信玄の嫡子に嫁ぐと、いった姻戚関係が成り立っていましたので、ほかにも今川領を狙う松平元康(後の徳川家康)のものになってしまうよりは親戚である武田のものにする方がいいといった主張が展開されても不思議ではありませんでした。

ところが、これが今川から妻を迎えていた嫡子義信よしのぶとの対立を生むことになりました。そこで信玄は、まず義信の守役もりやくであった飯富兵部少輔虎昌おぶひょうぶのしょうゆうとらまさを義信に謀反むほんを勧めたという嫌疑で永禄8年(1565)に処刑しています。ついで義信をも、同年9月頃、甲府の東光寺とうこうじ幽閉ゆうへい、翌々永禄10年(1567)10月に自害させ、その妻も今川へ返しています。

この事件は、武田内部ばかりでなく、対外的にも大きな波紋を呼びました。まずは、当然ながら「塩留め」とともに、武田と今川の断交、また、今川氏真が北条氏康の娘をめとっていたところから、武田と北条の断交、すなわち甲相駿こうそうすん三国同盟の破棄はきとなりました。そればかりか、今川・北条・上杉という同盟関係に発展、武田の孤立化は避けられない状況になっていきました。同時にこれにより、信玄が遠慮なく、駿河するが遠江とおとうみ三河みかわ等、南へ侵攻できる素地ができたと見てよいでしょう。しかし、上野吾妻郡の最前線にいる真田幸隆らにとっては、これまでの北の上杉だけでなく、南の北条軍にも対さねばならない厳しい立場に追い込まれることになりました。

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時代年表

年代 歴史 内容
1541 天文 10 上田地域 海野平の合戦パノラマVR
1542 11
1543 12
1544 13
1545 14
1546 15
1547 16
1548 17 上田地域 上田原の合戦パノラマVR
1549 18
1550 19 上田地域 砥石城攻略パノラマVR
1551 20
1552 21 武田信玄 関東を巡る対立
1553 22 武田信玄 川中島の戦い 第一回の戦い
上田地域 葛尾城落城
上田地域 塩田城自落
1554 23
1555 弘治 1 武田信玄 川中島の戦い 第二回の戦い
1556 2
1557 3 武田信玄 川中島の戦い 第三回の戦い
1558 永禄 1
1559 2
1560 3
1561 4 武田信玄 西上野への進出川中島の戦い 第四回の戦い
1562 5
1563 6 上田地域 岩櫃城攻略
1564 7 武田信玄 川中島の戦い 第五回の戦い
1565 8
1566 9 武田信玄 起請文提出
1567 10 武田信玄 起請文提出
1568 11
1569 12
1570 元亀 1
1571 2
1572 3
1573 天正 1 武田信玄 武田信玄逝く
参考資料:信濃史料、信玄武将の起請文、上田市誌「歴史編・文化財編」から引用しています。