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武田信玄と周辺地域のかかわり

信濃の隣国甲斐(山梨県)の武田氏は、平安末期から甲斐源氏として根を下ろしている一族です。室町時代から戦国時代にかけて甲斐国の守護しゅごを独占してきましたが、一族間の争いや(中略)有力な国人たちの反抗もあって、なかなか国内を統一する事ができませんでした。

武田信玄しんげんの父信虎のぶとらの代になると永正16年(1519)、やかた石和いさわから躑躅ヶ崎つつじがさき(甲府市)に移すとともに、反抗する一族や国人たちを従わせ、天文元年(1532)頃までには甲斐の統一を果たしました。

甲斐は、武蔵むさし(埼玉県、東京都、神奈川県の一部)・相模さがみ(神奈川県)・駿河するが(静岡県)・信濃の国々に囲まれています。これらの国々には力を蓄えた戦国大名が隣国と争っていました。特に関東管領かんとうかんれい(鎌倉公方を補佐する役)の山内上杉氏、相模の北条氏、駿河の今川氏などは強大な軍事力を持っていました。信虎はこれらの敵と対するのに、時に戦い、時に和睦を結ぶという戦術を持って対してきました。天文6年(1537)には駿河国と和睦するために、今川義元に娘を嫁がせるという手段も使いました。

信虎は、今川氏との同盟が成立すると、今度は別の地へ領地の拡大をめざします。その現われともいえるのが、天文9年(1540)信濃国佐久郡への侵攻です。

その後、信虎は天文10年(1541)、小県の名族海野氏を破りましたが、海野平の戦いの後、信玄は父・信虎を駿河の今川氏の元へ追放し、信濃国への侵攻を本格的に始めました。諏訪頼継を攻めて追放、さらに現在の佐久地方に続いて、上伊那地方に兵を進め、再び佐久地方を攻めました。続いて現在の上田地域を支配していた村上氏との上田原の合戦、砥石城の戦いで負け戦さとなったものの最終的には、村上氏をも越後へ敗走させ、川中島の戦いを経て北信濃までその支配下に治めました。

度重なる信濃への侵攻のあと、西上野をほぼ手中にした信玄は、さらに甲斐国の南へ進出を図りました。この頃、今川義元の娘を娶っていた信玄の嫡男義信は、父信玄との仲が険悪となり、永禄10年(1567)、自害させられました。これにより今川氏との断交と同時に、今川氏真が北条氏康の娘を娶っていたという縁戚関係から、北条氏とも断交になりました。その結果、今川・北条・上杉という同盟が結ばれて武田家は孤立する形になりました。

しかしながら上杉謙信は北条の出兵の要請にも動かずにいました。この間に、今川領である駿河と遠江の分割を徳川家康ととりかわして同盟を結びました。その後、武田信玄と徳川家康の間には亀裂が生まれ、反目しあうことになり、家康は、元亀元年(1570)上杉に起請文を送って同盟し、先の三者に徳川が加わってさらに情況は悪くなります。

翌年元亀2年(1571)、北条家は当主氏康の死去を契機として、効果の上がらない上杉との同盟関係を解消し、武田と再び同盟関係を結ぶ事になりました。生き延びるために互いの利によって同盟関係の離合集散が繰り返されていたのです。

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時代年表

年代 歴史 内容
1541 天文 10 上田地域 海野平の合戦パノラマVR
1542 11
1543 12
1544 13
1545 14
1546 15
1547 16
1548 17 上田地域 上田原の合戦パノラマVR
1549 18
1550 19 上田地域 砥石城攻略パノラマVR
1551 20
1552 21 武田信玄 関東を巡る対立
1553 22 武田信玄 川中島の戦い 第一回の戦い
上田地域 葛尾城落城
上田地域 塩田城自落
1554 23
1555 弘治 1 武田信玄 川中島の戦い 第二回の戦い
1556 2
1557 3 武田信玄 川中島の戦い 第三回の戦い
1558 永禄 1
1559 2
1560 3
1561 4 武田信玄 西上野への進出川中島の戦い 第四回の戦い
1562 5
1563 6 上田地域 岩櫃城攻略
1564 7 武田信玄 川中島の戦い 第五回の戦い
1565 8
1566 9 武田信玄 起請文提出
1567 10 武田信玄 起請文提出
1568 11
1569 12
1570 元亀 1
1571 2
1572 3
1573 天正 1 武田信玄 武田信玄逝く
参考資料:信濃史料、信玄武将の起請文、上田市誌「歴史編・文化財編」から引用しています。