信濃の隣国甲斐(山梨県)の武田氏は、平安末期から甲斐源氏として根を下ろしている一族です。室町時代から戦国時代にかけて甲斐国の
武田
甲斐は、
信虎は、今川氏との同盟が成立すると、今度は別の地へ領地の拡大をめざします。その現われともいえるのが、天文9年(1540)信濃国佐久郡への侵攻です。
その後、信虎は天文10年(1541)、小県の名族海野氏を破りましたが、海野平の戦いの後、信玄は父・信虎を駿河の今川氏の元へ追放し、信濃国への侵攻を本格的に始めました。諏訪頼継を攻めて追放、さらに現在の佐久地方に続いて、上伊那地方に兵を進め、再び佐久地方を攻めました。続いて現在の上田地域を支配していた村上氏との上田原の合戦、砥石城の戦いで負け戦さとなったものの最終的には、村上氏をも越後へ敗走させ、川中島の戦いを経て北信濃までその支配下に治めました。
度重なる信濃への侵攻のあと、西上野をほぼ手中にした信玄は、さらに甲斐国の南へ進出を図りました。この頃、今川義元の娘を娶っていた信玄の嫡男義信は、父信玄との仲が険悪となり、永禄10年(1567)、自害させられました。これにより今川氏との断交と同時に、今川氏真が北条氏康の娘を娶っていたという縁戚関係から、北条氏とも断交になりました。その結果、今川・北条・上杉という同盟が結ばれて武田家は孤立する形になりました。
しかしながら上杉謙信は北条の出兵の要請にも動かずにいました。この間に、今川領である駿河と遠江の分割を徳川家康ととりかわして同盟を結びました。その後、武田信玄と徳川家康の間には亀裂が生まれ、反目しあうことになり、家康は、元亀元年(1570)上杉に起請文を送って同盟し、先の三者に徳川が加わってさらに情況は悪くなります。
翌年元亀2年(1571)、北条家は当主氏康の死去を契機として、効果の上がらない上杉との同盟関係を解消し、武田と再び同盟関係を結ぶ事になりました。生き延びるために互いの利によって同盟関係の離合集散が繰り返されていたのです。
年代 | 歴史 | 内容 | ||
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1541 | 天文 | 10 | 上田地域 | 海野平の合戦 |
1542 | 11 | |||
1543 | 12 | |||
1544 | 13 | |||
1545 | 14 | |||
1546 | 15 | |||
1547 | 16 | |||
1548 | 17 | 上田地域 | 上田原の合戦 | |
1549 | 18 | |||
1550 | 19 | 上田地域 | 砥石城攻略 | |
1551 | 20 | |||
1552 | 21 | 武田信玄 | 関東を巡る対立 | |
1553 | 22 | 武田信玄 | 川中島の戦い 第一回の戦い | |
上田地域 | 葛尾城落城 | |||
上田地域 | 塩田城自落 | |||
1554 | 23 | |||
1555 | 弘治 | 1 | 武田信玄 | 川中島の戦い 第二回の戦い |
1556 | 2 | |||
1557 | 3 | 武田信玄 | 川中島の戦い 第三回の戦い | |
1558 | 永禄 | 1 | ||
1559 | 2 | |||
1560 | 3 | |||
1561 | 4 | 武田信玄 | 西上野への進出、川中島の戦い 第四回の戦い | |
1562 | 5 | |||
1563 | 6 | 上田地域 | 岩櫃城攻略 | |
1564 | 7 | 武田信玄 | 川中島の戦い 第五回の戦い | |
1565 | 8 | |||
1566 | 9 | 武田信玄 | 起請文提出 | |
1567 | 10 | 武田信玄 | 起請文提出 | |
1568 | 11 | |||
1569 | 12 | |||
1570 | 元亀 | 1 | ||
1571 | 2 | |||
1572 | 3 | |||
1573 | 天正 | 1 | 武田信玄 | 武田信玄逝く |