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蘇民将来符 その信仰と伝承
八日堂蘇民将来符
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蘇民将来符と八日堂縁日

「備後国風土記」の蘇民説話

蘇民将来符の写真
蘇民将来符
上田市指定民俗文化財。信濃国分寺が護符として頒布する。除災招福を願って神棚や仏壇にそなえるが戸口に吊したり、1センチほどのケシと呼ばれるものは懐中に携える。

映像アーカイブ「蘇民説話」の再生 「備後国風土記」は、鎌倉時代末期の『釈日本記』に引用記載されていることから逸文*1として伝存している。風土記は、和銅6年(713)中央官命*2により作成された報告公文書で、いつ編述が完了したかは明らかでないが、早くても官命後数年を要したと思われる。

 この備後国(現広島県東部)風土記逸文に、わが国で最も古い蘇民説話が見られ、原文を要約するとおよそ次のようになる。

蘇民将来符の写真
八日堂縁日の参詣者

 むかし、武塔神が求婚旅行の途中宿を求めたが、裕福な弟将来はそれを拒み、貧しい兄蘇民将来は一夜の宿を提供した。後に再びそこを通った武塔神は兄蘇民将来とその娘らの腰に茅の輪*3をつけさせ、弟将来たちは宿を貸さなかったという理由で皆殺しにしてしまった。武塔神は「吾は速須佐雄の神なり。後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と言って立ち去った。

 この説話で注目したいのは、まず武塔神という名の神である。

 武塔神(むとうのかみ)は、外国から渡来した武答天神王か、武に勝れた神を意味する名であるかは明確ではないが、「吾は速須佐雄の神なり」と、伝承の過程でスサノオノミコト*4に武塔神が習合*5されている。ここでは後にふれる牛頭天王(ごずてんのう)と武塔神は習合されていない。ちなみにスサノオノミコトを祗園社の牛頭天王と習合するのは平安時代以降である。

蘇民将来符の写真
蘇民将来符
信濃国分寺の檀信徒が製作するものには、七福神の絵などが描かれ縁起物としての性格が付与されている。

 次に、悪い病気が流行したら除厄の呪文として「蘇民将来の子孫」と唱えるように武塔神が言ったが、この呪文は蘇民将来符に「蘇民・将来・子孫・人也」と書かれている。

 また、「兄蘇民将来」「弟将来」とあり、わが国の人名表記にしたがえば、この兄弟の名は同じである。かりに「将来」が姓であるならばこの表記法はヨーロッパ民族の慣習によるものであり、なにを意味しているのであろうか。

 「備後国風土記」にみる蘇民説話では以上のような点が注目される。

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補足・関連項目

*1逸文

原文がほとんどなくなって世に一部分しか伝わっていない文章。一部分だけ残った文章。
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*2官命

政府からの命令。
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*3茅の輪(ちのわ)

茅(ちがや)を束ねて大きな輪としたもの。六月三〇日の夏越(なご)しの祓(はらえ)の際に作られ、これをくぐることによって罪・穢(けが)れが祓われるという。小さく作って首にも掛けた。菅貫(すがぬき)。
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*4スサノオノミコト

記紀(古事記と日本書紀)神話で出雲系神統の祖とされる神。伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二尊の子。天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟。粗野な性格から天の石屋戸の事件を起こしたため根の国に追放されたが、途中、出雲国で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して奇稲田姫(くしなだひめ)を救い、大蛇の尾から天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得て天照大神に献じた。新羅に渡って金・銀・木材を持ち帰り、また植林を伝えたともいわれる。「出雲国風土記」では温和な農耕神とされる。
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*5習合

異なる教義を折衷すること。
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