大堰(おおせぎ)の取水(しゅすい)口(くち)
武石川(たけしがわ)は茂沢川(もざわがわ)が合流(ごうりゅう)したあと、一ノ瀬(いちのせ)の南側(みなみがわ)で深(ふか)い渓谷(けいこく)を刻(きざ)みます(いまの幕打橋(まくうちばし)のあたり)。大堰(おおせぎ)の取水口(しゅすいこう)は、渓谷(けいこく)の出口(でぐち)にあり、一ノ瀬(いちのせ)の観音堂(かんのんどう)を見上(みあ)げる堀之内(ほりのうち)河原(かわら)にあります。大堰(おおせぎ)は3メートルの堰幅(せぎはば)があり、たっぷりとした水(みず)が4キロメートルにわたって市内(しない)を流(な)がれていきます。この堰幅(せぎはば)は武石小学校(たけししょうがっこう)の東側(ひがしがわ)で地中(ちちゅう)を流(なが)れるまでつづいています。小学校(しょうがっこう)の敷地内(しきちない)では、カモが泳(およ)ぎ、子供(こども)たちの遊(あそ)び場(ば)となっています。大堰(おおせぎ)ができた時期(じき)は記録(きろく)や言(い)い伝(つた)えが全(まった)くないのでわかりません。しかし、中世(ちゅうせい)にこの地域(ちいき)をおさめていた大井氏(おおいし)が、館(やかた)を堀之内(ほりのうち)から武石小学校(たけししょうがっこう)の北側(きたがわ)の大和守屋敷(やまとのかみやしき)に移(うつ)したのは、大堰(おおせぎ)をつくるためだったと考(かんが)えられます。また、周辺(しゅうへん)の古(ふる)い堰(せぎ)ができた時期(じき)から鎌倉時代(かまくらじだい)にできた堰(せぎ)であるとする説(せつ)もあります。堰(せぎ)は屋敷(やしき)東側(ひがしがわ)の堀(ほり)の役割(やくわり)もかねて流(なが)れ、枡形(ますがた)のある「町(まち)」方面(ほうめん)へ薮合用水(やぶあいようすい)を分流(ぶんりゅう)します。大堰(おおせぎ)が運(はこ)ぶ水(みず)は、下武石(しもたけし)方面(ほうめん)の小路(こうじ)・町(まち)・薮合(やぶあい)・中島(なかじま)・荒屋(あらや)・三島(みしま)・鳥居(とりい)に城下町(じょうかまち)として栄(さか)えるのに大(おお)きな役割(やくわり)を果(は)たしました。また、小学校(しょうがっこう)の東側(ひがしがわ)には、妙見寺(みょうけんじ)・信広寺(しんこうじ)・正念院(しょうねんいん)などの寺院(じいん)が集(あつ)まっています。これらの寺院(じいん)はもとは別(べつ)の地(ち)のあったとされ、現在地(げんざいち)に集(あつ)まっているのは、大堰(おおせぎ)があることが理由(りゆう)であるといえます。
六(ろっ)ヶ村(かそん)堰(せぎ)
桝網用水(ますあみようすい)
吉田(よしだ)堰(せぎ)
神科(かみしな)台地(だいち)の堰(せぎ)
堀越(ほりこし)堰(せぎ)
新屋(あらや)堰(せぎ)
笹井(ささい)染屋(そめや)堰(せぎ)
岩門(いわかど)堰(せぎ)
常田(ときだ)・久保(くぼ)堰(せぎ)
大堰(おおせぎ)
塩川( しおがわ)堰(せぎ)
塩田(しおだ)の用水(ようすい)
山崎( やまざき)堰(せぎ)
写真・図・掲載内容の著作権はそれぞれ、所蔵者ならびに出典者に帰属します。 All Rights Reserved. Copyright c Ueda City Multimedia Information Center -UMIC-
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