鳥羽(とば)頭首(とうしゅ)工(こう)
取水(しゅすい)口(くち)
千曲川(ちくまがわ)の流(なが)れに向(む)かって左側(ひだりがわ)(左岸(さがん)といいます)の地域(ちいき)に流(なが)れている川(かわ)のひとつに依田川(よだがわ)があります。三才山(みさやま)・和田峠(わだとうげ)・美ヶ原(うつくしがはら)などの南西(なんせい)にある山々(やまやま)を水源(すいげん)とし、古(ふる)くから依田窪(よだくぼ)と呼(よ)ばれている地域(ちいき)を北(きた)へと流(なが)れています。途中(とちゅう)、大門川(だいもんがわ)・武石川(たけしがわ)・内村川(うちむらがわ)と合流(ごうりゅう)し、上田市(うえだし)大屋(おおや)で千曲川(ちくまがわ)にそそぎます。水量(すいりょう)は、上田小県地方(うえだちいさがたちほう)の千曲川(ちくまがわ)の支流(しりゅう)の中(なか)では神川(かんがわ)とならぶほどです。気候(きこう)が温暖(おんだん)な丸子(まるこ)はおいしい米(こめ)や装飾品(そうしょくひん)・土器(どき)などの生産(せいさん)に最適(さいてき)な粘土地(ねんどぢ)に恵(めぐ)まれ、それにかかわる人々(ひとびと)が住(す)みついたとされています。しかし、年間降水量(ねんかんこうすいりょう)が少(すく)ないため、ずいぶんと水(みず)の利用(りよう)に悩(なや)まされてきました。依田川(よだがわ)と依田川(よだがわ)の支流(しりゅう)は山(やま)と山(やま)の間(あいだ)(谷(たに))を流(なが)れていて谷幅(たにはば)がせまく、沢(さわ)の水(みず)も依田川(よだがわ)に流(なが)れるので所々(ところどころ)が大(おお)きくでこぼこになっています。また、流(なが)れがはやく、豪雨(ごうう)や台風(たいふう)のときには水害(すいがい)をたびたび起(お)こしてきました。そのため、でこぼこの地形(ちけい)をいかして、人々(ひとびと)が生活(せいかつ)するところは高台(たかだい)に、へこんでいる土地(とち)を畑(はたけ)や田(た)んぼとして何本(なんぼん)かの堰(せぎ)をつくりました。「長野県町村誌(ながのけんちょうそんし)」によれば、明治初期(めいじしょき)の丸子地域(まるこちいき)には37の堰(せぎ)がありました。依田川両岸(よだがわりょうがん)に分(わ)かれる堰(せぎ)は、現在(げんざい)までに大(おお)きく4つに整(ととの)えられました。
その中心(ちゅうしん)となっているのが塩川(しおかわ)上(かみ)・下(しも)堰(せぎ)です。
塩川(しおかわ)上(のぼる)・下(しも)堰(せぎ)は一(いち)度(ど)に開(ひら)かれたのではなく、塩川(しおかわ)・丸子(まるこ)地域(ちいき)の土地(とち)区画(くかく)計画(けいかく)にそって、延長(えんちょう)され整(ととの)えられてきました。当時(とうじ)の豪族(ごうぞく)の政治力(せいじりょく)・経済力(けいざいりょく)・統制力(とうせいりょく)により、大規模(だいきぼ)に、規則正(きそくただ)しく水門(すいもん)が置(お)かれ、安定(あんてい)した水(みず)の供給(きょうきゅう)が得(え)られるようになりました。その結果(けっか)、田畑(たはた)の生産(せいさん)量(りょう)は高(たか)まり、その他(た)の集落(しゅうらく)が開(ひら)かれるきっかけになりました。
六(ろっ)ヶ村(かそん)堰(せぎ)
桝網用水(ますあみようすい)
吉田(よしだ)堰(せぎ)
神科(かみしな)台地(だいち)の堰(せぎ)
堀越(ほりこし)堰(せぎ)
新屋(あらや)堰(せぎ)
笹井(ささい)染屋(そめや)堰(せぎ)
岩門(いわかど)堰(せぎ)
常田(ときだ)・久保(くぼ)堰(せぎ)
大堰(おおせぎ)
塩川( しおがわ)堰(せぎ)
塩田(しおだ)の用水(ようすい)
山崎( やまざき)堰(せぎ)
写真・図・掲載内容の著作権はそれぞれ、所蔵者ならびに出典者に帰属します。 All Rights Reserved. Copyright c Ueda City Multimedia Information Center -UMIC-
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