新屋堰(あらやせき)のこと

堀越堰の頭首工

新屋堰(あらやせき)取水口(しゅすいこう)

新屋堰(あらやせき)のはじまりは、記録(きろく)(のこ)っていないのではっきりとはわかりません。しかし、古墳(こふん)古代(こだい)王様(おうさま)やその(おく)さんのお(はか))がたくさん(のこ)っていることから、この地区(ちく)がはやくからひらかれていたことがわかります。新屋堰(あらやせき)がかなり(ふる)いものであると(かんが)えられる理由(りゆう)は、「地名(ちめい)研究(けんきゅう)」をしている(ひと)()てた(せつ)から予想(よそう)することができます。
それは奈良時代(ならじだい)から平安時代(へいあんじだい)にかけて日本国(にほんこく)上手(じょうず)にまとめるために(くに)地方(ちほう))ごとに政治(せいじ)行政(ぎょうせい)(おこな)えるようにしようとする(うご)きからはじまります。当時(とうじ)人々(ひとびと)信濃(しなの)中心(ちゅうしん)上田神科(うえだかみしな)古里地区(こさとちく)にしてもらおうとしました。政治(せいじ)行政(ぎょうせい)(おこな)える場所(ばしょ)としては人々(ひとびと)生活基盤(せいかつきばん)がしっかりしていることがあげられるので、この(みず)(すく)ない地域(ちいき)(せき)()こうと(かんが)えたようです。
昭和(しょうわ)57(ねん)(1982)から昭和(しょうわ)60(ねん)にかけて(おこな)われた発掘調査(はっくつちょうさ)では、この()信濃(しなの)中心(ちゅうしん)とされたかどうかは、役所(やくしょ)機関(きかん)()かれたという証拠(しょうこ)がみつかなかったのではっきりとさせることはできません。しかし、これらの研究(けんきゅう)調査(ちょうさ)から神科台地(かみしなだいち)がはやくからひらかれていたこと、そのもととして(せき)()くことが重要(じゅうよう)であったことがわかりつつあります。
新屋堰(あらやせき)(ふる)くは竜王鼻堰(りゅうおうばなせき)とも()ばれ、もとは伊勢山(いせやま)(ひがし)、いまの川久保橋(かわくぼばし)(した)(ほう)神川(かみかわ)から分かれ(わかれ)て、虚空蔵山(こくぞうざん)東部(とうぶ)をまわって鴻呂館(おおとりりょかん)あたりをこえて新屋(あらや)()かれました。崖崩(がけくず)れがたえない虚空蔵山(こくぞうざん)(とお)って(せき)がつくられているので、山崩(やまくず)れのたびに(せき)がうまったり(こわ)れたりして大変(たいへん)でした。

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