私(わたし)たちが暮(く)らしている上田市(うえだし)とその周辺地域(しゅうへんちいき)のいくつかの小(ちい)さな川(かわ)は、千曲川(ちくまがわ)へそそいでいます(千曲川(ちくまがわ)の支流(しりゅう)といいます)。そのうち、千曲川(ちくまがわ)にたくさんの水(みず)を運(はこ)んでいるのが神川(かんがわ)です。神川(かんがわ)の豊(ゆた)かな水(みず)は、昔(むかし)から飲(の)み水(みず)としても農作物(のうさくぶつ)を育(そだ)てるための水(みず)としても、私(わたし)たちの暮(く)らしを支(ささ)えてきました。今日(こんにち)でも、9つの堰(せぎ)が周辺(しゅうへん)の人(ひと)たちの暮(く)らしを支(ささ)えています。
この9つの堰(せぎ)のうち、一番(いちばん)大(おお)きいのが吉田堰(よしだせぎ)です。この堰(せぎ)は、真田町石船地区(さなだまちいしぶねちく)にある頭首工(とうしゅこう)から水(みず)を引(ひ)き込(こ)み、真田町長(さなだまちおさ)・本原地区(もとはらちく)の一部(いちぶ)と上田市殿城(うえだしとのしろ)・芳田(よしだ)を通(とお)って東御市(とうみし)の深井(ふかい)・海野(うんの)へと行(い)き着(つ)く、本流(ほんりゅう)の長(なが)さだけでも12キロメートルになる堰(せぎ)です。この堰(せぎ)に流(なが)れている水(みず)がうるおしてる田畑(たはた)の面積(めんせぎ)も、昭和(しょうわ)30年代前半(ねんだいぜんはん)の500ヘクタール(グランド250枚分(まいぶん))からはずいぶんと少(すく)なくなっているものの、平成(へいせい)8年(ねん)(1996)現在(げんざい)、約(やく)300ヘクタール (グランド150枚分(まいぶん))になります。
年間降水量(ねんかんこうすいりょう)が少(すく)ない上(うえ)に、上流(じょうりゅう)に大(おお)きな水源(すいげん)のなかった旧豊里村(きゅうとよさとむら)(現(げん):芳田周辺(よしだしゅうへん))より下流地域(かりゅうちいき)の人(ひと)たちにとっては命(いのち)の水(みず)として大切(たいせつ)にされてきました。
吉田堰(よしだせぎ)の頭首工(とうしゅこう)
吉田堰(よしだせぎ)の利用(りよう)が始(はじ)まった年代(ねんだい)は「小県年表(ちいさがたねんぴょう)」では、「養老元年(ようろうがんねん)(717)に開(ひら)く」とし、「小県郡誌(ちいさがたぐんし)」では、「奈良朝後期(ならちょうこうき)か平安初期(へいあんしょき)かの時代(じだい)」としています。しかしこれらの記録(きろく)を証明(しょうめい)する文章(ぶんしょう)やものが出(で)てきていないため、はっきりとはわかりません。
吉田堰(よしだせぎ)は、山裾(やますそ)を等高線(とうこうせん)にほぼ並行(へいこう)して流(なが)れている「横堰(よこせぎ)」です。そのため、川(かわ)を流(なが)れる大水(おおみず)が分断(ぶんだん)する形(かたち)で直撃(ちょくげき)し、大雨(おおあめ)のたびに破壊(はかい)されました。昭和(しょうわ)43年(ねん)(1968)の神川沿岸土地改良区(かんがわえんがんとちかいりょうく)による大改修(だいかいしゅう)までは、ほとんど毎年(まいとし)のように被害(ひがい)を受(う)けたと伝(つた)えられています。堰(せぎ)の管理(かんり)はどこでも大変(たいへん)な人手(ひとで)と経費(けいひ)が必要(ひつよう)でしたが、特(とく)に吉田堰(よしだせぎ)は大変(たいへん)だったようです。
六(ろっ)ヶ村(かそん)堰(せぎ)
桝網用水(ますあみようすい)
吉田(よしだ)堰(せぎ)
神科(かみしな)台地(だいち)の堰(せぎ)
堀越(ほりこし)堰(せぎ)
新屋(あらや)堰(せぎ)
笹井(ささい)染屋(そめや)堰(せぎ)
岩門(いわかど)堰(せぎ)
常田(ときだ)・久保(くぼ)堰(せぎ)
大堰(おおせぎ)
塩川( しおがわ)堰(せぎ)
塩田(しおだ)の用水(ようすい)
山崎( やまざき)堰(せぎ)
写真・図・掲載内容の著作権はそれぞれ、所蔵者ならびに出典者に帰属します。 All Rights Reserved. Copyright c Ueda City Multimedia Information Center -UMIC-
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