文 新潮文庫 『真田太平記』
1 お江と向井佐平次
向井佐平次は、武田家長柄足軽の一員として、主人小山田備中守とともに高遠城にこもっていた。守るは、城主・仁科五郎盛信ほか三千。攻めるは織田信長の長男・信忠が率いる五万余の軍勢。信玄亡きあとの武田家の崩壊はだれの眼にも明らかだった。
「明日は、お前、死ぬる身じゃな」
急に、女のささやきがきこえた。
槍を両腕に抱いたまま、ようやく、仮眠の中へ分け入ろうとしていた向井佐平次の耳朶へ、女の熱い息がかかり、
「死ぬる前に、女の躰、抱きとうはないかえ……」
と、いう。
闇の中で、なまぐさいまでにただよう女の濃密な体臭には、血の匂いもまじっているかのようだ。
「ほれ……」
背後から女の手が、佐平次の腕をつかみ、引き寄せた。
女の、ふくみ笑いがきこえた。
佐平次は、舌打ちをした。
あの女のことは、よく、見おぼえている。
六日ほど前であったが、衣類を血だらけにして、三の丸曲輪へ城外からもどって来た姿を見た。
法憧院曲輪の一隅に、細長い十坪ほどの仮小屋が建てられてい、女は、その中で寝起きしている。
「あの小屋は、忍びの小屋だそうな」
と、同僚の中屋伊助が佐平次にいった。