文 新潮文庫『真田太平記』
11 処断
関ケ原の戦いに敗れた西軍の石田三成、小西行長らは、京で処刑された。
薩摩の島津義弘をたよって身を隠していた宇喜多秀家は、死罪をまぬがれたものの、八丈島に流されることになった。それまで東北で闘い続けていた会津の上杉景勝は、もはやこれまでと家康に謝罪する決意である。
一方、敵味方に分かれた真田家では、東軍にくみした信幸が、家康に岳父・本多忠勝とともに、上田城の昌幸、幸村の命乞いをする。だが、再三にわたり昌幸に苦い思いをさせられた家康は、「真田父子に腹を切らせよ」と厳しく命じるのだった。
真田父子の謀略にあやつられ、父・家康が生死を賭けた決戦場で闘うことができなかったくやしさは、秀忠の性格が性格だけに、
「生涯、忘れ得ぬ……」
汚辱をこうむったといえよう。
本多忠勝は、徳川家康のゆるしが出るや、すぐさま自分の家臣を上田城へ送り、助命の事を告げ、
「速やかに城を明け渡されたし」
と、つたえさせた。
「ほう、命を助けてくれるそうな」
真田昌幸は苦笑して、
「左衛門佐。いかがいたそうかの」
「されば……」
「されば?」
「生きてあれば、いずれ近き日に、おもしろきこともありましょう」
「さようにおもうか?」
「はい」
「うむ」
大きくうなずいた安房守昌幸が、
「わしもじゃ」
と、いいはなった。