文 新潮文庫 『真田太平記』
6 燃えさかる炎と黒煙に包まれた上田城下
家康は、豊臣家のために会津の上杉景勝を討つとの名目で東下し、江戸を出発したとき、石田三成が西で蜂起した。家康は好機到来とばかりに、会津を攻めるべき軍勢の方向を転換し、福島正則、黒田長政などを先鋒部隊として、今度は西へ上りはじめる。
犬伏で東軍の会津攻めの陣営を離脱した真田昌幸・幸村父子は、上田城へ帰り、城郭の防備を急がせた。
上田城へ帰った真田昌幸・幸村父子は、城郭の防備を急がせた。
これまでの大きな合戦の例を見てもわかるように、徳川家康が大軍をひきいて西上するとなれば、おそらく徳川秀忠の第二軍が信濃から北国を威圧しつつ、進軍するにちがいない。
そこで昌幸は、まず、上田城の防備をととのえることにしたのだが、
「砥石の城にも、手入れをいたしておけ」
と、命じた。
これは万一にそなえ、上田城を撤退せねばならぬとなったとき、かつての本城だった砥石城へ立てこもることを意味する。
いずれにせよ、徳川軍が押し寄せてきたならば、
「左衛門佐は、砥石へ入るがよい」
昌幸は、そういった。
自分が上田の本城をまもり、幸村は嶮しい砥石の山城へ入り、両面から徳川軍を、
「甚振ってくれよう」
このことである。
上田城下から砥石、真田の庄にかけて、領民たちも防備工事にはたらき、夜ともなれば、おびただしい篝火・松明が夏の空を焦がした。
真田昌幸は、上田城の大手口の町屋二筋を、
「焼き払え」
と、命じた。
これは、戦闘のための足場を能くするためだ。
立ち退く町民たちに対して、それぞれに適切な保護をあたえたことはいうまでもない。