文 新潮文庫『真田太平記』
12 紀州九度山
関ケ原の戦いで西軍にくみした真田昌幸、幸村父子は、徳川第二軍に多大な損害をあたえたにもかかわらず、敗将の汚名をかぶることになった。
最初から東軍にくみした真田信之と、信之の岳父・本多忠勝の必死の助命嘆願により切腹をまぬがれた真田昌幸、幸村父子は、紀州の九度山に蟄居させられることとなった。
九度山は、高野山の北谷にある。
北に紀ノ川のながれをのぞみ、高野山の東北を繞って紀ノ川へそそぐ丹生川を見下ろす丘の中腹に、真田屋敷があった。
それは、上田城内の居館とはくらべものにならぬが、大台所のまわりに、家来・小者や侍女たちの部屋があり、その東側の、ひろい板敷きの間をへだてて四間から成る一郭が幸村夫妻と、その子たちの居住するところになっている。
さらに東へ、廊下をへだてて九畳敷の二間があり、ここに、昌幸夫妻が起居していた。
池田綱重・原出羽守・小山田治左衛門など、家来の中でも身分が上の人びとは、真田屋敷の北面に住居を設けており、低い石垣と板塀によってへだてられているが、双方の出入りは自由である。
三頭の馬をおさめた馬屋もあり、庫も一棟、納屋も二棟ほどあったが、いずれにせよ、不自由なことはいうをまたぬ。
しかし、左衛門佐幸村が、沼田城の兄・信之へ送った手紙に、
「われ等手前などの儀は、なおもって大くたびれとまかりなり申し候、察せらるべく候」
と、あるように、十余年の蟄居の倦怠が、しだいに真田昌幸の生気を奪ってしまったのであろう。
この倦怠が、真田父子には何よりも大敵であった。