文 新潮文庫 『真田太平記』
14 大坂夏の陣
慶長十九年十二月、大坂冬の陣はひとまず休戦となった。和議の取決めにしたがって、関東方は狂気のように大坂城の濠を埋め立てた。
元和元年四月、徳川と豊臣は再度、あいまみえることとなった。
世にいう大坂夏の陣の決戦である。すでに大坂城は裸城同然で、大坂方に勝ち目がないことは歴然としていた。真田昌幸は父祖伝来の兵法を天下に誇示して、討死にすることを覚悟していた。
かくなるうえは、ただ徳川家康の首を討つだけである。幸村は、愛馬「月影」にまたがり敵陣へ突入していった。
馬上の幸村は人間わざともおもわれぬ槍さばきで敵を突き崩し、突き殪した。
愛馬の月影は、腹をしめつける幸村の股の感触ひとつで、主の手足のごとくうごいた。
逃げ足となり、手薄となった越前勢を一気に突き破った真田幸村は、約五十騎の手勢をひきいて、猛然と、徳川家康の本陣へ殺到した。
同時に……。
抱角の兜こそかぶってはいないが、幸村と同じ緋縅の鎧をつけ、唐人笠の馬印と共に、数人の戦将が、
「大御所の御首頂戴!」
「御首頂戴!」
呼号しつつ、四方へ散った。
これは、真田幸村の影武者といってよいだろう。
九度山以来の、幸村の家来である高梨内記・三井豊前・青木半左衛門などが、十余名の兵と共に影武者となり、家康の本陣を目がけて突撃する。
それこそ、
「あっ……」
という間もなかった。
本陣の、低い丘の下にいた約五百の家康の旗本たちは、真田勢のあまりに猛烈な攻撃に、大御所の徳川家康の身を護ることさえ忘れてしまった。
恐怖だ。
怖いものは怖い。
赤色の魔神の一隊が旋風のごとく襲いかかって来た。
三河以来の武勇を誇る、家康直属の戦士たちが半里も一里も逃げ散ってしまったというのだ。