慶長五年。豊臣秀吉の没後、徳川家康は露骨に天下への野望をみせ始めていた。前田利家が病没し、反徳川の筆頭・石田三成を佐和山に引退させてからは、豊臣秀頼の後見を名目として大坂城へ入城していた。
だが、生前の秀吉により、会津若松へ領国を移されていた上杉景勝は、国で戦備を整えていたし、三成も多くの牢人を召しかかえ、城の改築もすでに終わっていた。
五十九歳になっていた家康は、なんとしても目の黒いうちにと、会津・上杉を攻める決心をし、出陣の号令を諸国に下した。真田昌幸は、決断に迫られていた。徳川に追従するか、それとも恩ある上杉に……。
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