文 新潮文庫『真田太平記』
10 お江、単身家康を襲う
天下分け目の関ケ原の決戦まで、あとわずか。
家康を乗せた輿は、岐阜城を出発し、いま長良川を渡っていた。
輿の背後に馬廻りの一隊、その後ろには逞しい体つきの十人のつきそい女房、そして次に十二名の騎士、最後尾には猫田与助が加わっていた。与助は、家康の傘下にいる甲賀・山中忍びのひとりだ。宿敵、真田家の草の者、お江が現れるのを待っているのだ。家康の命を狙って現れるはずのお江を殺すことは、与助の怨念になっていた。
いつ、お江は〔つきそい女〕の一人と入れ替わったのであろう。
つぎつぎに〔つきそい女〕たちを、川の中へ突き飛ばしたお江が腰の脇差を引きぬきざま、これを口に銜えた。
「曲者!」
「あっ……」
川の中の足軽たちが叫び声をあげる。
騎士たちは咄嗟に、何が起こったのかわからぬようであった。
〔つきそい女〕たちの前を進んでいた馬廻りの一隊の中の二騎が横ざまに倒れ、騎士は川中へ振り落とされている。
お江の躰が怪鳥のごとく宙へ舞あがった。
「おのれ!」
与助は、舟橋に沿って川中に馬を進めようとするのだが、おもうようにまいらぬ。
そのお江を目がけて、猫田与助が数箇の飛苦無を投げ撃った。
その一箇が、お江の頬をかすめた。
与助は、左手の槍を右手に持ちかえて、激流の中に馬を進める。
舟橋の上は、名伏しがたい混乱におちいっていた。
騎士が、馬が、たちまち川へ落ち込む。
対岸からも兵士たちが、川へ躍り入って来た。
家康の輿が、舟橋の中程で、ぐらぐらと揺れている。
それへ向かって三度跳躍するお江を、与助は見た。
「南無三……」
祈りをこめて、与助は、お江へ手槍を投げ撃った。